郷土の教育者・柘植葛城と立教館

2014年10月16日 (文化財課)

 文政13年(1830)、現在の柏原市国分に郷土の子弟教育のための学校・「立教館」が設立された。設立者は、国分出身の医師・柘植葛城(諱は常熈。通称は卓馬)という人物。設立当初は、明円寺(妙円寺)という寺の境内にあったようだが、その後、塾生(通学者)が増えて建物が手狭になったため、文久3年(1863)に新しく建て直されることになった。しかし、幕末の動乱の中、工事は遅れ、完成したのは、ようやく明治4年(1871)になってからのことだった。それが、現在、旭ヶ丘3丁目の関西福祉科学大学の敷地内に残る建物である。大阪府古文化記念物等保存顕彰規則による史跡指定を受けている。

 柘植葛城は、国分の医師・柘植常彰の長男。医師としては小石玄瑞の門下だが、医学を学ぶ以前には儒学者の中井竹山や頼山陽の門下にあり、特に山陽門下では「四天王」の一人といわれたほどの俊才だったという。文政12年(1829)に帰郷して医師を開業。翌年、地元の要請に応え、有志の協力を得て立教館を設立した。国分村以外からも通学者があり、多くの生徒たちが学んでいたという。新しい建物の建築工事中は、葛城の自宅が教室となっていた。

 しかし、葛城の存在が大きすぎたせいか、後継者に恵まれない何らかの事情があったのか、学制発布により明治6年(1973)に小学校(第25番小学=現在の国分小学校)が設立されると、その役割を終え、消えて行ってしまった。いや、むしろ立教館の関係者たちは、明治維新の到来という時代の中、新しい建物の完成をきっかけに館を私塾から国公立の学校へ転換しようと、慶応4年(1868)2月から政府に嘆願していた。(その後、明治3年9月にも嘆願している。さらに新しい建物が完成した明治4年にも嘆願、ようやく採択されている。)

 もし、小学校設立後も後継者に恵まれ、立教館は中等・高等教育を担当するなど、小学校との間に役割分担が行われていたなら、あるいは、その後、立教館高校や立教館大学にまで発展していったかもしれない。京都の立命館に対して、柏原の立教館といったところか。とはいえ、そのためには英語教育など、当時の時流やニーズに適合した教育でなければならなかっただろう。立教館の消滅は、儒学や漢学では、もはや時代遅れと思われたためかもしれない。

 明治4年(1871)10月、立教館は、嘆願採択により、それまでの私塾から公立の国分村小学校に変わった。しかし、そこで行われていた教育は、依然として、儒学や漢学を中心としたもので、明治政府の目指す小学校教育とは異なっていた。その後、設立された第25番小学は立教館の施設内に置かれたが、このとき立教館としての教育は事実上終わったと考えられる。そして、明治7年(1874)1月に葛城が71歳で亡くなった直後、立教館の建物は県(当時、現在の柏原市域は「堺県」に属していた)に献上されている。

 郷土の期待に応えて設立され、その役割を十二分に担った立教館は、江戸から明治に至る大きな時流の中で激しく浮沈し、歴史の中に消えていったようだ。

 ところで、葛城の師・頼山陽は、たびたび葛城のもとを訪れており、国分付近の大和川の眺めを「河内嵐山」と名付けて称賛したといわれている。ただし、これについての史料的裏付けは見当たらない。むしろ、山陽は天保3年(1832)に亡くなっていることから見て、可能性は低いとも考えられる。「河内嵐山」と名付けていたのは、葛城自身だったのかもしれない。

 

【参 考】

「河内国分」 1955.2 杉田正一 国分町(現・柏原市)

「柏原市史」第3巻 1972.3 柏原市

「柏原市史」第5巻 1971.12 柏原市

「かしわらの歴史物語」 2005.3 柏原市

(文責:宮本知幸)

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