大坂の陣と柏原コラム1 大坂冬の陣、豊臣秀頼に集った人々

2014年10月27日 (文化財課)

豊臣秀頼の「地位」

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、征夷大将軍に就任した。しかし、その勢力圏は関東・中部地方に留まった。それに対して、豊臣秀頼は日本最高の経済都市・大坂に本拠を置き、摂河泉以外の近畿地方や中国・四国にも領地を持っていた。成人すれば将軍よりはるかに格上の関白に就任すると考えられ、上方で圧倒的人気を誇っていた。

 

秀頼の誘いに応じた武将

 家康は約五十歳年下の秀頼に孫の千姫を嫁がせ、共存共栄を目指した。しかし、両雄並び立たず、慶長一九年(一六一四)に両者は決裂すると、有力な大名は秀頼に見方しなかった。多くの 大名は軍事的カリスマである家康を恐れていた。

 秀頼に味方した多くは、黒田官兵衛に仕えた後藤又兵衛や、徳川家康を上田城(長野県上田市)で破った真田昌幸の子の信繁(幸村)など浪人たちであった。

 

三田家の先祖・水野庄左衛門も豊臣方へ

 しかし、陰ながら秀頼を支援する大名はいた。関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元の従兄弟の内藤元盛が大坂城に入城した。豊臣秀吉に仕えた加藤清正の子の忠広は、武器や兵糧を援助している。清正の友の福島正則は兵糧を秀頼に提供するだけでなく、一族の福島正守(まさもり)と正鎮(まさしげ)が豊臣方に加わり、夏の陣では片山に陣取った後藤又兵衛の後詰として、真田信繁と共に出陣している。

 現在、重要文化財三田家住宅(柏原市今町)を所有する三田家の先祖の水野庄左衛門は、正則に仕えていたが豊臣方に味方したという。庄左衛門も正守たちと共に戦ったのであろう。庄左衛門の子の三田浄久が後に柏原に移住するのも、不思議な縁である。

 

 

(文責:天野忠幸)

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