トピック「大坂の陣」関係文書
徳川家康は、豊臣家の財力を失わせるため、豊臣秀頼に寺社の造営修復を勧めた
この二、三か年、国々伽藍、秀頼公より建立したまうこと、はなはだしきなり。定めて、心中に立願の儀あるか。
(中略)
このころ、北野社、大坂秀頼公より造り改めらる。北野に限らず、そうじて寺社・仏閣、この近年造営なり。
(中略)
金銀入用ならびに人足手間、かぞうにたう(数うに問う)べからず。太閤のお貯えの金銀、このとき払底あるべし。
「当代記」(『柏原市史』第三巻本編2、4ページ)
解 説
「当代記」は、室町時代末期から江戸時代初期までを記述した文書で、寛永年間(1624~1644)にまとめられた。史料的価値は高い一方で、フィクションも多いと指摘されている。編纂者は不明であるが、徳川家康の外孫である松平忠明らであったとされる。
関ヶ原の合戦以後、豊臣家は摂河泉約65万7000石の一大名に転落した。しかし、その財力は莫大だった。そこで、徳川家康は、豊臣家の財力を失わせるために、亡き豊臣秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、豊臣秀頼に寺社の造営や修復を勧めた。そのうちの一つが方広寺(京都)の大仏殿再建工事であり、このとき、その鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文言が、家康による秀頼攻撃の口実の一つとなった。
かくして、徳川・豊臣の最終決戦、大坂の陣に突入していくこととなる。
というのが、従来の通説だったが、最近の研究によると、少々異なってきている。
まず、豊臣家には摂河泉以外にも、少なくとも伊勢・備中・讃岐に所領があったことが確認されている。また、官位も秀頼の方が、将軍・徳川秀忠より上だったので、「一大名」とも言い難い状況である。
慶長7年(1602)1月6日、秀頼が正二位に昇進した。徳川秀忠はそれに2日遅れて、従二位・権大納言に昇進している。正二位の方が従二位より一階級上である。その後、慶長10年(1605)4月、秀頼が右大臣に昇進した直後に、秀忠は正二位・内大臣(右大臣の下)・征夷大将軍に就任した。
寺社の修復も家康の勧めにしたがったのではなく、豊臣家の健在ぶりを示すため、自らの意思で行ったというのが正しい見方のようだ。さらに大坂落城後、多量の金銀が徳川方に押収されており、秀吉の貯えた金銀が枯渇していたという事実もなさそうである。
伊達政宗の先鋒・片倉小十郎重綱は、片山の小松山東方に布陣した
五日申の刻、道明寺口・片山口麓に着き仕り候ところに、小十郎儀、役人方より割り候渡し陣場、片山に差しかかり候て、進退しかるべからずと存じ、この処を二町余も後へ退き申すべきよし、家来の者に申し候えば、戦場にて進み候こそ、よろしく候に、退き候こと、しかるべからず候よし、家来の者ども申し候えば、小十郎申し候は、進退のたびに叶い候こそ、良将にてこれあり候。敵この山へ取り上がり、山の上より鉄砲をうちかけ候えば、必ず敗軍つかまつるべく候あいだ、前に掛り場を残し、山をば敵に与え候様に見せさせ、兵を山中に隠し置き、伏兵取りあい候みぎり、この方より押しかけ、勝利得るべしと申し候えば、老兵ども感じ入り候。この陣所をみだりに引き退き候えば、諸備疑いこれ有り候。疑いは敗軍の基と申し候いて、政宗旗本へ使いをもって申し達し、方々へも相断り、そのうえ、小十郎陣所の右の松平下総守陣所へ、小十郎方より使い番の丹野源四郎を差し越し、備えを二つに分け、鉄砲二百丁、弓五十張り、長柄百本、片山に隠し置き、その身は馬上ならびに鉄砲百丁、弓五十張り、長柄百本、歩小姓の槍百本を残し置き、右源四郎 指し候ところの旗、下総守陣所へ入り候を見、武見を所々に付け置き、今夜は夜討これ有るべき候あいだ、油断致すべからず旨を申し付け、終夜、寝申さず、小十郎自身、陣中をまわり油断を戒め申し候。
「御撰大坂記」(『柏原市史』第三巻本編2、7ページ)
意 訳
5日午後4時ごろ、伊達政宗の先鋒、片倉小十郎重綱は、道明寺口・片山口麓に到着した。しかし、担当役人から布陣場所として割り振られた場所、原川の渡し場は、片山に近すぎて軍を自由に動かせない。そう判断した小十郎は、「ここから約200メートル後退した地点に布陣する」と家来たちに伝えた。家来たちは「戦場では前進するべきである。後退するなど、とんでもない」と反対したが、これに対して小十郎は「状況に応じて軍が自由に動けるようにするのが優れた将というものだ。敵が、この山に上り、山の上から鉄砲を撃ってきたら、我が軍に勝ち目はない。ここは、我が軍が敵の射程外となるよう、我が軍の前に空間を置いて、敵に山を占領させよう。そのうえで山中に隠しておいた我が軍の伏兵との戦闘が始まったら、そのとき一気に総攻撃をかければよい。これで勝てる」と説明した。それを聞いて、古参の家来たちも感心したという。とはいえ、決められた布陣場所を勝手に変更するのは、味方にあらぬ疑いを抱かせる行為。味方同士が疑っては、敗戦の原因ともなる。そこで、政宗の本陣へ、その旨を報告した。さらに他の陣所へも連絡した。その上、使い番として丹野源四郎を右隣に布陣している松平忠明の陣所に派遣した。片倉軍を二つに分け、一方(鉄砲200丁、弓50張り、長柄100本)を片山に伏兵として配置し、小十郎は、その他の兵(鉄砲100丁、弓50張り、長柄100本、歩小姓の槍100本)と本隊に残った。源四郎が忠明の陣所に入ったのを確認し、各所に見張りを配置した後、「今夜は敵の夜襲があるだろうから、油断するな」と命令した。その夜は、小十郎自身、徹夜で陣中をまわり、油断を戒めた。
解 説
「御撰大坂記」は、従来の幕府の公式記録文書「武徳大成記」には不備があるとして、徳川吉宗の命により、寛保3年(1743)ごろ桂山義樹、林信充らによって編纂された。大坂の陣などについて、記述されている。19巻19冊。
片倉小十郎重綱(1584~1659)は、大坂夏の陣の当時30歳、まさに武将としてパワーに満ち溢れていた時期だったようだ。後に「重長」と改名しているが、これは、後に将軍・徳川家光の嫡子が家綱と名乗ったことから、その諱(いみな=本名。普段は呼ぶことを遠慮された)の文字を避けたのだという。「小十郎」というのは、片倉家当主の通称である。
ここに抜粋した文章から、当時、片倉小十郎は計700人の実戦部隊を擁しており、その内訳は鉄砲300人、弓100人、長柄200人、槍100人だったことが分かる。鉄砲の比率が高かったことが見て取れる。他にサポート隊(補給隊など)がいただろうから、軍勢の総数は、その2倍くらいにはなったものと推定できる。
長柄とは、柄の長さが6~7メートルにも及ぶ長い槍のことで、騎馬の突撃を防ぐため、密集して使用した。
槍は、通常2~3メートルほどの長さで、戦国時代においては、主要な武器だった。
片倉小十郎は、片山・小松山の戦いでは自ら先頭を切って戦ったようだが、そのため父の景綱から「刃を交えるなど、一軍の将としてあるまじきふるまい」と叱られたという。
また、小十郎は、大坂夏の陣の戦いで、真田信繁(幸村)の家臣や子供たち(真田守信ら)を保護しており、元和6年(1620)に信繁(幸村)の娘・阿梅を後妻(継室)に迎えている。
後藤又兵衛、奥田三郎右衛門ら、片山村(小松山)で戦う
後藤又兵衛は、古沢四郎兵衛・山田外記両先手 片山へ夜の内に取上り、鉄砲を打ち掛け申し候。松倉豊後守・奥田三郎右衛門 早取り合わせ防戦仕り候。奥田三郎右衛門は、わずか三千石の身体にて候えども、よく浪人を五人まで抱え、このたび関東勢に先をかけさせ候ては、大和侍已来口はきかる間鋪く候、と申し候ことばのごとく、一番に片山へせめ上り申し候。大坂方は、片山の北の尾崎を山田外記、左巴ののぼり押し立て取り囲み候。山嶺筋をば、古沢四郎兵衛、釘貫ののぼり押し立て取り囲み候。後藤人数もこの両先手をめがけ、両方へ押し付け申し候。松倉豊後・奥田三郎右衛門は一所に片山へ掛り候時、桑山左近同じく控えまかり在り候。奥田手の浪人 岡本加助、金の琵琶べらの着物にて、時刻移り候あいだ、力もはやく懸り候えと申し遣わし出で候。桑山左近申し候は、日向旗本を待ちつけ、一所に懸りしかるべしと諌め候えども、岡本加助、とかく時刻移り候あいだ、早く御懸り候えと申し捨て、切鼻の段へかけ上り候ところを、片山の上より鉄砲にて撃たれ申し候。加助の眉間にあたり、すなわち討死。奥田三郎右衛門見て、岡本を討たせ、とても無念なるかな。神子田四郎兵衛・下野道仁・井上四郎兵衛・阿波仁兵衛を引き連れ、片山の上へ攻め上り候。
「大坂御陣覚書」(『柏原市史』第三巻本編2、7ページ)
一部の字句は大阪市立中央図書館本にて補った
意 訳
大坂方の後藤又兵衛は、古沢満興と山田外記の二人の先手部隊を夜の間に片山へ進ませ、徳川方を銃撃させた。これに対して、徳川方の松倉重政と奥田忠次は、直ちに防戦した。奥田忠次は、わずか3000石ではあるが名のある浪人を5人も抱え、「このたび関東勢に先を越されては恥辱である。もし、先を越されたら、大和武士は、今後、ものを申すことはできない」と言っていたとおり、一番に片山へ攻め上った。大坂方は、片山の北端を山田外記が守り、山筋を古沢満興が守っていた。又兵衛の本隊も、この両隊に兵士を分けて配置していた。
松倉重政と奥田忠次が、ともに片山に到達したとき、桑山左近が後方に控えていた。奥田配下の浪人・岡本加助が「無駄に時を過ごしてはならない。一刻も早く攻撃なさいませ」と伝えたのに対し、左近は「水野勝成隊の到着を待って、ともに攻撃すべきだ」と諌(いさ)めた。しかし、岡本は、これをきかず、「早く攻撃されよ」と言い捨てて突撃したものの、片山の上から鉄砲で眉間を撃ち抜かれて即死した。奥田忠次は、これを見て、「岡本を死なせて無念だ」と、神子田四郎兵衛、下野道仁、井上四郎兵衛、阿波仁兵衛らを率いて、片山の上へ攻め上っていった。
解 説
「大坂御陣覚書」は、延宝5年(1677)の成立、主な筆者は宇佐美定祐とされる。主として、徳川方の視点から大坂の陣が記述されている。
当時の鉄砲の実用射程距離は、一般に50メートル以内だったと推定されている。ただし、熟練の射手の場合だと80~100メートルでも命中させることができたとされるので、岡本加助は、そのぐらいの距離で撃たれたとも考えられる。攻撃待機している部隊は、当然、完全射程外(200メートル以上か)に陣取っていただろうから、味方の陣地から飛び出し、敵陣に向かってしばらく走った後、味方の見ている前で撃たれたという映画的シーンが浮かび上がってくるところである。
鉄砲の実用射程距離については、後のヨーロッパのフリントロック式の銃(19世紀初期ごろまで使用された)でも似たようなものとされ、第2次世界大戦中にあっても実際の戦闘では100メートル以内で撃ち合うことが大部分であったという。つまり、確実に命中させることのできる距離が、このくらいだということだ。
また、槍の長さについても、洋の東西を問わず、最長は約7メートル(3間半)だった。このくらいの長さが、人間の扱うことのできる限度であるようだ。
片山村(小松山)一帯で激しい戦いが繰り広げられる
奥田三郎右衛門(徳川方)、後藤又兵衛(大坂方)ら討死
大坂御陣の節、慶長二十乙卯年四月二十七日、小野(大野)主馬 南都を焼き払おうとし給うについて、藤堂将監殿・松倉豊後守殿・奥田三郎右衛門殿、右三人として小野主馬を追い払い、軍勢ども河内国国分村越えに逃げるを追いかけ、小野が家来拾七人を討ち取り給う。小野が国分村越えに泉州へ向け逃げるところを、右三人の衆が追いかけ当村まで御越し候ところに、後藤又兵衛が今日を限り討死とあい定め、軍勢ども弐万三千余騎を道明寺村表の石川を隔て陣取り、寄せ来る敵をあい尋ね給う。これによりて、右三人ども当村山の内に陣取り給う。
東所方、松倉十左衛門殿が壱番に名乗り出で、後藤方家来の津田茂右衛門と槍を合わせ戦うところを、茂右衛門を十左衛門が即時に突き留め給う。次に後藤方の山口藤左衛門と名乗り、入れ替わり十左衛門を突きたり。これによりて、十左衛門家来の山本権兵衛 走りかかり、藤左衛門が槍を即座に切り落とし、そのまま藤左衛門の首を権兵衛が討ち取り、次に後藤家来の遠藤大隅と名乗り、無二無三に切り入りしを、松倉十左衛門家来の井村助兵衛が戦いしが、大隅に助兵衛が討ち取られ、次に後藤家来の片山勘兵衛と名乗り、主仁とも五人を松倉家来の天野半之助が即時に五人とも討ち取りけり。
次に松倉豊後守殿家来の松岡才三郎・山本権兵衛の弐人は後藤が陣へ切り入り、弐人とも後藤方家来ども数多討ち取り、その後に討死。後藤又兵衛は玉手村表の当村西方まで押し寄せ、両方入り乱れ、 これによりて 松平下総守殿家来の山田十郎兵衛・菅江七郎右衛門の弐人とも、無二無三に切り入り、後藤家来の頼母を討ち取り、その後に弐人とも討死、次に松平下総守殿家来の奥平金弥・川北権右衛門の弐人として、後藤家来を即時に百人討ち取り給う。
次に本田(本多)因幡守殿 拾六歳にて初陣に勧めけり。家来の上松八左衛門はたって留めけれども、この場所にて武はべりたる者は命惜しむべきあらず、いかほど留めても承引これなし、八左衛門も供いたし、後藤方へ切り入り、家来ども三百人が討ち取り給う。
藤堂将監殿・松倉豊後守殿・奥田三郎右衛門殿、右三人は我先にと戦い、後藤家来ども数多討ち取り給う。押して奥田三郎右衛門殿並びに家来の井上四郎兵衛・高畠九郎次郎 下野道仁・見田(神子田)四郎五郎・岡本加助・主仁六人とも、後藤方へ一騎当前(一騎当千)に切り入り、莫太(莫大)の働き、後藤家来を討ち取り給うこと数知れず。その後討死。
水野日向守殿・桑山左衛門殿・同加賀守殿・丹羽勘助殿・松平陸奥守殿は円明・玉手・当村山の内に陣取り給う。そのほかに諸大名方の陣取り、これあり候えども、委細覚え申さず候。
後藤又兵衛を討ち取らんと我先にかけ向かい、五月六日の早朝に誰殿の矢が当たり候かな、後藤は矢傷を負い、もはやこれまでなり、我が首取られては後代までの恥辱なりとて、家来の吉村武右衛門を近づけ、我は切腹致すなり、即時に我が首を討ち落とし、この深田の中へ押し込み隠し、かならず、かならず寄せ手の軍勢どもに我が首を取られなと申し含め、そのまま切腹し給う。これによりて 吉村武右衛門は主人なれども仰せなれば是非もなし、涙ながら首を討ち落とし、当村西方の深田の中へ押し込み給う。家来の武右衛門もそのまま主人のお供と申し切腹し給う。元来、後藤は黒田筑前守殿家来にてありしが、主人に隙(暇)を乞い、牢人の身となり、大坂方へ頼られ給う。年は四拾六歳になり給う。この軍書の表の別紙に絵図に記し、これあり候。以上。
右の趣、御陣の節、当村表にて、一評書を記し置き候。以上。
元和元乙卯年五月 益池喜兵衛 (花押)
「益池家文書」(『柏原市史』第五巻史料編2、17ページ)適宜改行
意 訳
大坂の陣のとき、慶長20年4月27日、大坂方の大野治房が奈良を焼き払おうとしたが、徳川方の藤堂良以、松倉重政、奥田忠次の3人の軍勢がこれを撃退した。3人の軍勢は、大野の軍勢が河内国国分村越えで逃げようとするのを追いかけ、17人を討ち取った。さらに大野の軍勢が国分を抜けて泉州方面へ逃げようとするのを追いかけて、3人が片山村まで来たところ、大坂方の後藤又兵衛が「今日を限りに討死」と決心し、2万3000余りを率いて道明寺村に到着、石川を前に布陣した。このため、3人の軍も片山村の山間部に布陣することとなった。
徳川方の松倉十左衛門が一番に名乗りをあげ、又兵衛の家来の津田茂右衛門と槍を合わせて戦い、即座に茂右衛門を倒した。すると又兵衛方の山口藤左衛門が名乗りをあげ、十左衛門を槍で突いた。これを見た十左衛門の家来の山本権兵衛が突っ込んできて、藤左衛門の槍を即座に切り落とすや、そのまま藤左衛門の首を取った。続いて、又兵衛の家来・遠藤大隅が激しく切り込んで来た。十左衛門の家来の井村助兵衛が大隅と戦ったが、助兵衛は大隅に討ち取られてしまった。さらに又兵衛の家来の片山勘兵衛が家来とともに5人で切り込んで来たが、十左衛門の家来の天野半之助が5人とも討ち取ってしまった。
松倉重政の家来の松岡才三郎と山本権兵衛の2人は、又兵衛の陣へ切り込み、又兵衛の家来を多数討ち取ったが、その後、討死した。
又兵衛の軍勢が玉手村から片山村の西方まで押し寄せ、乱戦となった。松平忠明の家来の山田十郎兵衛と菅江七郎右衛門の2人は、又兵衛軍に激しく切り込んで、又兵衛の家来の頼母を討ち取った後、2人とも討死した。松平忠明の家来の奥平金弥と川北権右衛門の2人は、あっというまに又兵衛の家来100人を討ち取った。
本多政武は、16歳で初陣だった。家来の上松八左衛門がいくら止めても、政武は「この戦場で武人たる者、命を惜しむべきではない」と聞かなかった。やむをえず、八左衛門も供をして又兵衛方に切り込み、又兵衛の家来300人を討ち取った。
藤堂良以、松倉重政、奥田忠次の3人は我先にと戦い、又兵衛の家来たちを大勢討ち取った。中でも奥田忠次とその家来の井上四郎兵衛・高畠九郎次郎・下野道仁・神子田四郎五郎・岡本加助の主従6人は、又兵衛方に対して切り込み、一騎当千、抜群の働きで、討ち取った敵の数は知れないほどだった。しかし、その後、討死した。
水野勝成・桑山一直・桑山加賀守・丹羽氏信・伊達政宗は、円明・玉手・片山村の山間部に布陣した。その他、諸大名が布陣したが、その詳細は覚えていない。
徳川方は、又兵衛を討ち取ろうと、我先に攻撃していた。そうしたところ、5月6日の早朝、誰かが射た矢が当たり、又兵衛は重傷を負った。又兵衛は、「もはや、これまで。敵に我が首を取られては後代までの恥辱」と、家来の吉村武衛門を呼び、「我は切腹する。即座に我が首を打ち落とし、このあたりの深田の中に隠せ。絶対に、敵にとられるな」と命じ、切腹した。武右衛門は、主君の命令であれば仕方がないと、涙ながらに又兵衛の首を切り落とし、片山村西方の深田の中に隠した。その後、主君にお供するとして、自らも切腹して果てた。元々、又兵衛は、黒田長政の家来だったが、主君に暇(いとま)を乞い、浪人となって大坂方に加わっていた。年齢は46歳になっていた。この書付の表、別紙の絵図に記載してある。
右のとおり、大坂の陣のとき、当村(片山村)おもてにて ひとつ書き記しておく。
元和元年(1615)5月 益池喜兵衛(花押)
解 説
この文書によれば、又兵衛は石川の西に布陣したとあるが、「大坂御陣覚書」によれば、石川を渡り小松山に上ったとされている。
後藤又兵衛の最期については、「伊達家文書」では片倉重綱が鉄砲で討ち取ったとしている。また、又兵衛が討死したときの年齢についても、一般に知られている年齢(56歳)より若い。
後藤又兵衛については、実は討死せずに薩摩まで逃げ延びたとか、脱出後、道後温泉で湯につかっているところを討ち取られたとか、様々な伝説がある。吉村武右衛門が、一度埋めた首を掘り起し、伊予国の長泉寺(又兵衛の伯父が住職を務めていた)に埋葬のうえ供養を頼んだといった話もあるという。
大坂城 落城
五月八日、天晴れ 巳刻に至り大坂城落つ、秀頼公、同御袋、そのほか女中二十人ばかり自害のよし也、打ち死にの衆二万ばかりのよし也、(中略)その夜もってのほか 雨降る。「梵舜日記」
梵舜日記は、安土桃山~江戸初期の神道家・神龍院梵舜が著した日記で、当時の状況を知る貴重な史料とされる。
梵舜(天文22年(1553)~寛永9年(1632))は、神龍院住職で豊国神社別当。徳川家康の信任も厚く、大坂夏の陣の後も秀吉の祭祀を許されたという。元和2年(1616)、家康の死去に際しては、その葬儀を任された。
片山の古戦場を見て
大坂のいくさのとき、片山 玉手 円明 この三村は、道明寺おもての合戦場なり。
玉手山に勝松という大木あり、このふもとにおいて、後藤又兵衛年房(基次)五十六歳にて討死しはべり。また、薄田隼人正兼相は名乗りを変えて高実といいける、これも、このところにて討死、長沢七右衛門、これは又兵衛組頭にてありしが、これも同所にて討死、そのほか多くの軍兵ならびに寄せ手の兵も大勢打ち死にしはべるより申し伝える。
玉手山勝松
狂歌
いくさにや さぞ勝松の けぶりまで
のろしのように 蛍もゆらん 直房
狂歌
鉄砲の 玉手の山の あればこそ
昔いくさに 勝松のいろ 葦葉
(中略)
片山に大坂の軍(いくさ)の寄せ手の奥田三郎右衛門忠一(忠次)討死の石塔あり。同寄せ手の井上四郎兵衛・神子田やう兵衛(四郎兵衛)・岡本少助(加助)・下野道二(道仁) 阿波伊兵(仁兵衛)、このところにて討死。そのほか軍兵大勢打ち死に、大坂勢はなおもって大勢打ち死に。この三村の地はあき間もなきほど死骸ありけると申し伝えはべる。
(中略)
石塔を見て 狂歌
人々の 心おく田が 討死は
義理かた山に のこる石塔 久任
「河内鑑名所記」(『柏原市史』第五巻資料編2、33ページ)
河内鑑名所記(『柏原市史』より) |
解 説
「河内鑑名所記」は、延宝7年(1679)、三田浄久により執筆、刊行された。浄久は、現在でいうところの柏原市民で、当時から今町に住んでいた。重要文化財・三田家が、それである。浄久は、実際に河内一円の名所旧跡など取材して、この本を執筆したという。
刊行当時は、大坂の陣から60年余りを経過している。第2次世界大戦から約70年を経過した現在と、似たような時間の隔たりの中にあったようだ。
また、浄久は、広島城主・福島正則の家来だったが大坂の陣では豊臣方に味方して討死した水野庄左衛門の息子とされている。大坂夏の陣の当時は7歳だった。
後藤又兵衛の血脈 又兵衛は黒田官兵衛の実子?
後藤又兵衛には多くの子供がいた。長男佐太郎は大坂の陣の時に人質として大坂城へ差し出された後、淡輪村(大阪府岬町)で農民となった。次男の左門は冬の陣に際して毛利家で幽閉されたが、父の邪魔にならないように自殺した。三男の弥八郎は熊本の加藤家に仕えたが、豊臣方に兵糧を支援した加藤美作(みまさか)の派閥に属していたため、後に切腹させられた。四男の又市は又兵衛と親しかった細川忠興(ただおき)に、五男の久馬助は鳥取の池田家に仕えた。
娘のうち一人は黒田家の家臣、もう一人は鳥取の池田家の家臣に嫁いでいる。
又兵衛の子供たちも、大坂の陣に翻弄されたのである。
その中の五男・久馬助の母は、池田輝政(てるまさ)の家臣・三浦主水(もんど)の妹であったという。こうしたところから、大坂夏の陣の当時3歳だった久馬助は、母とともに三浦家に引き取られ、三浦姓を名乗ったようだ。この久馬助が、後に池田忠雄(ただかつ、輝政の子)や光仲(忠雄の子、鳥取藩主)に仕えた三浦治兵衛為勝である。
現在、鳥取市新品治町(しんほんじちょう)の景福寺に為勝の子・正敏(又兵衛の孫)が建てた、又兵衛や為勝らの墓が残されている。そして、その墓碑には、
「為勝之厳父曰、後藤又兵衛正延・・・黒田官兵衛源政成法号如水入道実子」
(為勝の父が言うには、後藤又兵衛正延は、黒田官兵衛源政成法号如水入道の実子)
と刻まれている。
これは真実なのか、それとも願望によるものか。あるいは単に間違って伝わっただけなのか、真相はわからない。しかし、少なくとも三浦正敏が、そう思っていたことだけは事実というべきであろう。
後藤又兵衛が生まれたのは、永禄3年(1560)4月とされている。一方、黒田官兵衛が生まれたのは天文15年(1546)11月。2人の年齢差は13歳余りしかない。もし本当に実子だったのだとしたら、官兵衛は相当に早熟だったことになる。
又兵衛が「正延」、官兵衛が「政成」と名乗ったことはなく、黒田氏は江戸時代初期には自らを源氏ではなく、藤原氏と称していた。おそらく、三浦正敏は官兵衛と又兵衛の英雄的な活躍から、二人の親子関係を想像したのであろう。
為勝の墓碑(鳥取市・景福寺) |