トピック「大坂の陣」概要

2014年10月27日 (文化財課)

一、大坂の陣 ~ 豊臣と徳川の最終決戦 ~

 2014年と2015年は、それぞれ大坂冬の陣と大坂夏の陣から400周年にあたります。大坂城を築き天下を統一した豊臣秀吉の子の秀頼と、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が戦い、柏原もその舞台の一つとなりました。

 

二、大坂の陣の原因は? ~ 秀頼を警戒する家康 ~

 関ヶ原の戦い後も、豊臣秀頼こそが主君だと考える大名は数多くいました。また、秀頼は近畿地方の神社・仏閣の修理や工事を行いましたが、これが景気刺激策となり、人気が高まります。そうした秀頼に、家康はやがて焦りや不安を感じるようになりました。
 ちょうどその時、秀頼が再建した方広寺(ほうこうじ)の釣鐘に記された「国家安康(こっかあんこう)」という文言が問題になります。当時、家康のような貴人の名前を切り離すのは失礼なことでした。特に秀頼にとって、家康は妻の千姫(せんひめ)の祖父にあたります。家康は秀頼の失敗を見逃さず、これを口実に大坂に出陣しました。

 

三、冬の陣から夏の陣へ ~ 大坂城に集う牢人衆 ~

 秀頼は家康と戦うために有志を募ります。これに応じたのが、今年の大河ドラマの主人公である黒田官兵衛に仕え、活躍した後藤又兵衛たちです。
 冬の陣では、2016年の大河ドラマの主人公となる真田信繁(幸村)が奮闘し、和睦に持ち込みました。
 しかし、豊臣方は年が明けると再軍備を進めたため、夏の陣が始まります。豊臣方は、樫井、若江、小松山で徳川方の大軍を分散して迎え撃つ作戦を立て、各地で激戦が繰り広げられました。

 

四、小松山の戦い

 奈良方面から進軍する徳川方の主力は、「独眼龍」と恐れられた仙台の伊達政宗たちでした。後藤又兵衛たちは政宗らを、生駒・金剛山地の地形を利用して食い止めようと考えます。
 ところが、5月5日、徳川方は先手を取って国分に陣取りました。これを見た又兵衛は、6日未明に急きょ片山を占領します。そして、早朝、決戦の火ぶたは切って落とされました。
 片山や玉手山で激戦となり、又兵衛は10倍近い人数の徳川方を相手に奮戦しますが、道明寺で政宗に討ち取られます。徳川方も奥田三郎右衛門(おくださぶろうえもん)や山田十郎兵衛(やまだじゅうろうべえ)などの戦死者を出しました。玉手山公園には彼らをしのぶ石碑や供養塔があります。激戦地となった玉手山一号墳のあたりを小松山とも呼ぶことから、小松山の戦いと呼ばれています。

 

五、大坂落城 ~豊臣家の滅亡~

 小松山や八尾などの死闘で、多くの武将や兵を失った豊臣方には、家康の首を狙うしか手はありません。5月7日、天王寺で真田信繁が果敢に家康の本陣に迫りますが、信繁が討ち取られると、大坂城内にまで攻め込まれ、翌8日に秀頼が自害し大坂の陣は終わりました。豊臣家の滅亡を見届けた家康も、翌年に死去します。
 江戸時代の大坂や柏原は、大坂の陣からの復興で始まります。

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