「松岳山」考 船氏の墓所はどこなのか?

2014年9月26日 (文化財課)

 国宝・船氏王後墓誌(ふなしおうごぼし)というものがある。長さ29.7センチ×幅6.9センチ×厚さ0.1センチの銅板で、表裏両面に計162文字が刻まれており、両面ともに金メッキの痕跡がある。昭和28年(1953)3月、国宝に指定された。現在は、東京都中央区の三井記念美術館に収蔵されている。

 墓誌とは、墓に葬られている人の経歴や先祖などについて記して墓に納めた記録板、いってみれば現代の墓碑銘のようなものだ。

 この墓誌は、船氏という氏族の王後首(おうごおびと)という人のもので、明治の初めごろまで、現在の羽曳野市にある西琳寺に所蔵されていたとされる。しかし、いつ、どこで、誰によって、どのような経緯で発掘されたのか、全く伝わっていない。ただ、墓誌に「松岳山」に葬ったと記載されているところから、出土地(王後の墓所)は、現在の柏原市国分市場にある「マツオカヤマ」だろう、と理解されてきた。ここには、美山(みやま)古墳という前方後円墳がある。国分神社という神社があることから、「美山」は「宮山(みややま)」のことだと考えられる。他にもいくつか古墳があるが、美山古墳が一番大きく目立っている。それで、ここが墓誌の出土地、つまり「松岳山(まつおかやま)」であり、この古墳が王後の墓だろうということになった。そういうわけで、大正11年(1922)、美山古墳の後円部のみが「松岳山古墳(まつおかやまこふん)」として国の史跡に指定された。以来、多くの人が、この古墳を「松岳山古墳」と呼び、墓誌の出土地だと認識してきた。

 ところが、この古墳は4世紀の前方後円墳である。対して、王後は7世紀の人物である(墓誌によると、舒明天皇13年・西暦641年に死亡している)。こうしたところから、現在では、さすがに、この古墳が、王後の墓だという人はいない。が、それでも、墓誌の出土地であることを疑う人はあまりいない。古墳のある区域にあとから葬ったとも考えられるからだ。

 しかし、この地を「松岡山」と呼んでいたことは間違いないが、「松岳山」とする史料は見当たらない。この付近一帯に、他に、それらしいところがないため、「松岡山」が「松岳山」だと見なされてきたにすぎない。「岡」とは、周囲よりは高いが山よりも低いものである。対して「岳」とは、高く立派な山をいうとされる。そうすると、意味が正反対になる。もし、漢字の意味だけで判断するのなら、「松岡山」を「松岳山」と見るのは、少々無理があるように思える。

 ところで、船氏というのは、百済系の渡来人であるとされる。その百済の故地、開城(ケソン、後に高麗の王都。現在は北朝鮮。韓国の協力による工業団地で知られる)に「松岳山(ソンアクサン)」(標高489メートル)という山がある。百済時代、開城は、「トンビボル」城と呼ばれていたという。「冬比忽」という文字を当てている。「ふゆ、くらべる、きびしくない」、これは、冬らしからぬ(景観が広がっていた)土地、という意味にとれないだろうか。もし、そうだとしたら、周囲を松の木で覆われ、常に緑に包まれている地のイメージにぴったりだ。事実、開城は、松岳山など松の木が多い山々に囲まれていることから「松嶽」「松都」などとも呼ばれていたらしい。その開城の象徴が「松岳山(ソンアクサン)」なのである。高麗時代の漢詩には、「松山(ソンサン)」などとも詠まれている(李穡の「詠雪」)。

 こうしてみてくると、「松岳山(しょうがくさん)」というのは、船氏にとって特別の意味を持った存在であったことが想像できる。精神的故地、心のふるさと、聖地というか。日本に渡来後もまた、精神的故地としてのイメージの場所「松岳山」を、日本の地の中に求めたのではないだろうか。船氏が、そのイメージの場所を果たして、どこに求めたのか、それは想像するしかない。河内国丹比郡、現在の羽曳野市野々上の野中寺(やちゅうじ)のあたりに居住していた船氏の墓所は、野中寺南の寺山だったとされる。あるいは、ここが船氏にとっての「松岳山」だったのかもしれない。

 しかし、柏原市文化財課としては、他市内に国宝の出土地を求めることには抵抗がある。やはり、ここは柏原市内に求めたい。実際、現在の通説では、柏原市内だとされているわけだし。

 精神的故地としてのイメージの場所である以上、そこは実際に「山」である必要すらない。他の場所だったのかもしれない。とはいえ、全くの平地を「山」と呼ぶことはないだろう。「松岳山」とイメージする以上は、やはり、それなりの存在であったはずだ。

 漢字の表記としては、「岡」という漢字を書くとき、かまえの内側のみで表現することもあるだろう。そうすると、それは「岳」によく似た形になる。また、本来表意文字である漢字を表音文字として使用する例もある。特定の文字を避け、別の文字が当てられることもある。こうした例は、日本のみならず中国にもある。そこでは、文字の「意味」は考慮されていない。そうすると、「松岳山」と「松岡山」との間には、何の違いもないことになる。この二つが同じものであっても何ら不都合はないのである。

 ここまで見てきたところで、現在の史跡松岳山古墳のあたりの「岡」に目を向けてみよう。

 この「岡」のあたりで、最も高く目を引くのは、芝山である。

 芝山から稜線を西に少し下ってきたあたりにあるのが史跡松岳山古墳だ。芝山は、万葉のころ(8世紀ごろ)には「島山」と呼ばれていた。高橋虫麻呂の歌に詠まれている(万葉集9-1751)。三方を大和川で囲まれ、残る一方は湿地帯。まさに「島山」と呼ぶにふさわしいロケーションだ。

 さて、ここから先は全くの想像である。一つの考え方(空想)ということで、気楽にお読みいただきたい。

 名前から見ても舟運関係の仕事に携わっていたと考えられる船氏にとって、芝山は、まさに象徴的な存在だったのではないだろうか。つまり、この芝山と、芝山を中心山塊とする一帯が、船氏のイメージした「松岳山」=船氏の墓所(聖地)だったとは考えられないだろうか。芝山にも、かつて、6~7世紀ごろの古墳群があったことが知られている(残念ながら、今では1基も残っていないが)。

 その後、「島山」がなまって「芝山」となったと思われる。最高所の名称は、船氏のイメージの中ではどうあれ、一般的には「島山」「芝山」だったのだろう。かくして、最高所の名称としては「芝山」が一般化することによって、「松岳山」の方は矮小化していった。それが、さらに「マツオカヤマ・松岡山」となって、近世に至った。特定の地区を指すだけだった名前が、その地区を含んだ周辺一帯を意味する地名となることもあれば、その逆もある。発音が微妙に変化していくこともある。 「松岳山」も、このような展開をたどったのではないだろうか。

 もし、そうだとすれば、墓誌の出土地は芝山と芝山を中心山塊とする一帯のどこか、ということになる。かくして、通説とほぼ同じ結論に至ったわけだ。

 次に、なぜ、芝山から出土した墓誌が西琳寺に納められていたのか。それは、同寺のあたりが、船氏の子孫、末裔と認識する人々の居住地だったからだろう。出土当時において、先祖に対する意識が、そうさせたと考えれば不自然なことではない。

 繰り返すが、以上、全くの想像である。

(文責:宮本知幸)

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