柏原市民ら韓国を訪問 古代日韓交流の歴史 百済の遺跡などを見学

2012年10月30日

 柏原市の歴史愛好者の市民らが、10月23日から26日の日程で韓国公州(コンジュ)市や扶余(プヨ)郡などを訪問、百済の遺跡などを見学するとともに現地の研究者や市民らと交流した。

 訪問したのは、柏原市の歴史愛好者サークル、郷土史を探る会の枡谷政則事務局長や市民歴史クラブの長澤星二会長ら両サークルのメンバーら一般市民計14人。同市政策推進部市民ふれあい課(国際交流担当課)の一松孝博課長と同市立歴史資料館の安村俊史館長が同行した。両サークルから市に対して職員の派遣要請があったことから、今回の訪問を官民一体でより有意義なものにするため、昨年10月の同市の岡本市長らの公州市訪問のお礼と、古代文化のさらなる研究や両市の文化交流をいっそう深めるなどの目的で、日程を併せて市からも職員を同行派遣することになった。

 百済とは、7世紀後半まで朝鮮半島南西部にあった国。当時の日本と活発な交流があり、柏原市内には百済との文化交流を示す遺跡が数多く残されている。同市高井田の高井田山古墳(5世紀)は百済の影響を受けたと見られ、同地の史跡高井田横穴(6~7世紀)は逆に百済に影響を与えたと考えられるという。5世紀後半には、日本に渡来した百済の王族、昆支(こんき)王が、柏原市南部から羽曳野市にかけての地域に居住していたとされる。こうした古代の文化交流を韓国での現地見学で直接体感するとともに、現地の市民らとの交流を通じて日韓の友好交流促進の一助にしようと、今回の訪問となった。

 23日、関空から韓国に出発した一行は、同日、公州市の宋山里(ソンサンニ)古墳群を見学。翌24日と25日には、国立公州博物館や国立扶余博物館のほか、公山城(コンサンソン)、扶蘇山城(プソサンソン)、陵山里(ヌンサンニ)古墳群など、公州や扶余周辺の遺跡などを見学した後、ソウルに移動、南大門(ナンデムン)などソウル市内の文化財を見学した。

 公州市では、滞在中、同市市議会の高光喆(コ・クワンチュル)議長や李昌善(イ・チャンソン)副議長、同市武寧王国際ネットワーク協議会の鄭榮一(チョン・ヨンイル)会長らと交流したほか、韓国国立公州大学校の尹龍●(ユン・ヨンフク)教授らと意見を交換するなどした。24日には、一松課長と安村館長が公州市役所にユン・ソクク※副市長を表敬訪問した。最終26日には、石村洞(ソクチョンドン)古墳群などソウル近郊の遺跡や今年4月にオープンした漢城百済(ハンソンペクチェ)博物館などを見学、夕方の便で帰国の途についた。

 宋山里古墳群は、高井田山古墳とほぼ同時代の古墳群で、武寧王陵(ムニョンワンヌン)があることで知られる。武寧王は、百済中興の祖といわれる王で日本生まれ。昆支王の子とされる。高井田山古墳と武寧王陵は、規模や副葬品など非常によく似ている。石村洞古墳群は、柏原市の松岳山(まつおかやま)古墳や茶臼塚古墳の墳丘に似た古墳がある古墳群。陵山里古墳群は、聖王(ソンワン、武寧王の子)のものとされる古墳のある古墳群で、日本でしか採れない高野槇(こうやまき)が棺材として用いられていると思われるなどの特徴を持つ。聖王は、聖明王(ソンミョンワン)とも呼ばれ、日本に仏教を伝えたことで知られる。公山城と扶蘇山城は、いずれも百済時代の首都近くに築かれた山城。漢城百済博物館は、5世紀後半まで百済の首都だった漢城(現在のソウル)を紹介しようとソウル市が建設した博物館で、これまで別々の場所に保管されてきた百済時代の文化財など約4万2千点を一堂に集めている。これらの遺跡などを目の当たりにした一行は、改めて、古代日韓の文化交流と両国の関係の深さを実感していた。

 近年、日本と韓国との間には、竹島問題など近現代史に関連した、さまざまな問題があるが、訪問した市民らは「古代史上の結びつきを大切にして、今後も友好交流を進めていきたい」などと話していた。

●火へんに赤二つ

※漢字不明

 

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