発見! 幻の「堅山家文書」 約100年ぶりに堅山家の土蔵から

2012年12月21日 (文化財課)

 幻の「堅山家文書」が、約100年ぶりに発見された。

 堅山家文書とは、明治10年(1877)に行われた、河内国国分村市場(現在の柏原市国分市場)の松岳山(まつおかやま)古墳群(4世紀)の発掘に立ち会った地元の堅山新七が書き残した記録。発掘は、当時の堺県令・税所篤(さいしょ・あつし)の指示によって行われた。

 文書の内容は、大正5年(1916)に発表された梅原末治(後の京都大学名誉教授)の論文に紹介されているものの、文書そのものは、その後、所在が明らかでなく、研究者の間では長く幻の文書とされていた。昭和30年(1960)に同古墳群の松岳山古墳(美山(みやま)古墳)を調査した小林行雄(後の京都大学名誉教授)も堅山家に依頼したが見ることができなかったという。当時、すでに堅山家でも文書の所在が分からなくなっていたようだ。それが、堅山家建物の解体に先立つ、平成23年9月の柏原市立歴史資料館の安村俊史館長らによる調査の際、同家の土蔵から運び出された多数の文書の中から、約100年ぶりに発見された。発見された堅山家文書は、平成24年10月5日付で、他の文書や民具類など計約2000点とともに堅山英里子さんから同歴史資料館に寄贈された。

 

文書の捜索、そして発見

 安村館長は、同歴史資料館の平成21年度夏季企画展「松岳山古墳を探る」の開催をきっかけに本格的に堅山家文書の捜索を始めた。国分本町の堅山家は、住民が引っ越して、すでに無人だったが、平成22年2月に至り、堅山新七の子孫で横浜市在住の堅山隆夫さんに連絡をとることができた。隆夫さんは、平成23年8月に亡くなられたが、翌9月、奥さんの英里子さんの許可を得て、堅山家の管理を依頼されている隣家の金田修一さんの立会のもと、土蔵や家屋内の調査が行われた。堅山家に残されていた、すべての文書類や民具類なども調査の対象となった。このとき、10数点の民具類とともに預かって持ち帰った約2000点の文書の中から、明治10年の松岳山古墳群の発掘を記録した、幻の堅山家文書が発見されたのだ。併せて、明治7年(1874)に開通した亀の瀬新街道(現在の国道25号)の工事関係資料なども発見された。

 

よみがえる140年前の発掘

 発見された文書は、縦約22cm×横約16cm。横約32cmの罫紙、計9枚を二つ折りにしてコヨリで綴じられている。さらに全体を縦に四つ折りにして、縦25cm×横11cmの袋に納められていた。内容は、発掘の日付や状況、立会人らの氏名、出土品の種類や数など。出土品をスケッチした図も説明とともに記載されている。図は、ほぼ原寸大であるという。現地に派遣されていた堺県の担当役人、沼田瀧からの書簡も併せて綴じられている。この発見で、梅原が1面の鏡の表裏の図を2面の鏡の図だと見誤っていたことなどが分かった。

 文書によると、発掘は明治10年10月2日午前10時から開始され、その日は銅鏡や折れた鉄剣、勾玉などが出土した。松岳山古墳(美山古墳)の後円部墳丘上にむき出しになっている石棺の蓋石も開けられたが、石棺の中には、ほとんど「何もこれ無く」だったという。石棺の西側に開けられていた穴に樫の棒を2本差し込み、テコにして蓋石を「こじ開けた」ようだ。さらに6日と7日には、隣接する古墳(南塚古墳、東ノ大塚古墳)から銅刀や銅鏡の破片などが出土している。後に国の重要文化財に指定される歯車形碧玉製品(昭和29年指定、藤田美術館蔵)が、東ノ大塚古墳から出土したのは6日のことだとされる。文書によって、約140年前の発掘のようすが、ありありと現代によみがえった。

 

文書にみる税所篤の功罪

 発掘を指示した県令・税所篤は、当時、古墳だけでなく全国の古社寺や遺跡を調査、発掘し、出土品などを収集したことで知られる。堺市の仁徳天皇陵を「発掘」したのも税所だとされる。鳥の糞の掃除を名目に墳丘内に立ち入り、たまたま開口していた石室を「調査」したのだという。発掘というより盗掘といった方が正確とされ、自身の興味と所有欲から自身の地位を利用して各地の遺跡を発掘、出土品を私有したことで、早くから何かと批判のあった人物だ。松岳山古墳群の発掘でも、めぼしい出土品は持ち帰っており、折れた鉄剣や割れた銅鏡の破片などは地元に返却し、埋め戻すよう指示している。そうしたことが文書でも明らかになった。ただ、担当役人を派遣し、地元の惣代を立ち会わせるなど、発掘は公的に行われたことから出土品の一部や記録などが残っている。こうしたところから、密かに行われた本物の盗掘よりは罪が軽いとの意見もある。安村館長も、その点だけは評価できるとの見解だ。事実、松岳山古墳も江戸時代末から明治にかけて、複数回、盗掘にあったといわれている。

 安村館長は、このほど、発見までのいきさつや文書の内容などを調査研究報告「続・税所篤と松岳山古墳」(同歴史資料館「館報」24所載)としてまとめている。同研究報告は、平成22年度の「税所篤と松岳山古墳」(同22所載)に続く第2弾。

 長く幻とされていた堅山家文書発見の意義は大きい。同歴史資料館では、今後も他の文書類とともに研究を続け、各種の史料検証などを通じて、郷土の歴史を明らかにしていきたい、などとしている。

 

【松岳山古墳群】

 前方後円墳や円墳、方墳などで構成される4世紀の古墳群。現在、はっきりした形では美山古墳(前方後円墳)1基しか残っておらず、美山古墳のことを一般に「松岳山古墳」と呼んでいる。大正4年(1915)に美山古墳の後円部が、「史跡松岳山古墳」として、国の史跡に指定された。同古墳群は、国宝・船氏王後首(ふなしおうご・おびと=7世紀の人物)の墓誌や重要文化財・三角縁神獣鏡など3面が出土したことでも知られる。

 

【堺県】

 慶応4年(1868)6月設置。その後、河内県や岸和田県などを統合、さらに明治9年(1876)4月に奈良県を統合した。松岳山古墳群の発掘が行われた明治10年10月ごろには、河内、和泉、大和のほぼ全域を管轄していた。明治14年2月、大阪府に統合され、消滅。他方、明治20年11月に奈良県が、大阪府から分離、再設置されている。県令とは、当時の県の長官のこと。

(文責:宮本知幸)

 

堅山家1 堅山家2
堅山家文書
堅山家3 堅山家4
堅山家の土蔵 現在の松岳山古墳後円部墳頂

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