古代の“国道1号線”は柏原を通っていた !? 夏季企画展「難波より京に至る大道を置く」開催 新たな視点から通説に挑む

2013年6月17日

 柏原市立歴史資料館(同市高井田)は、7月13日(土)から9月8日(日)まで、夏季企画展「難波(なにわ)より京に至る大道(だいどう)を置く」を開催する。周辺遺跡の出土品などを通じ、古代の“国道1号線”ともいうべき、大道のルートと当時の柏原市域のようすを検証する。柏原市市民歴史クラブ(長澤星二会長、18人)の会員が製作した、難波から飛鳥までの当時の道路を表示した立体地図(縦150センチ×横180センチ)も展示する。午前9時30分から午後4時30分。月曜休館。入館無料。

 

大道設置1400周年  真実のルートは?

 日本書紀の推古天皇21年(613)11月の条に「難波より京に至る大道を置く」とあり、今年は設置1400周年にあたる。「難波より京」とは、「難波津(なにわづ=難波の港)から当時の宮殿があった飛鳥まで」を意味する。大道のルートは、難波津(現在の大阪市中央区と北区の大川周辺)からまっすぐ南下した後、現在の堺市大泉緑地のあたりで竹内街道に合流し、飛鳥まで続いていたとするのが一般的な見方、現在の通説といえる。「大道」(大阪市天王寺区)や「大道町」(堺市北区金岡町)などといった地名が大阪市から堺市にかけて残っており、大阪市住吉区と東住吉区の境界、それに続く堺市と松原市の境界、南北約4キロの直線も大道に関係する何らかの痕跡だと考えられている。昭和55年には、堺市北区で幅約18メートルの道路の遺構が発掘された。この遺構は「難波大道」と名付けられ、推古天皇21年の大道に関連するものと見られていた。

 しかし、近年、堺市北区で発掘された道路の遺構は7世紀半ば以降のものであることが分かり、大道を置いたのが7世紀前半だとする日本書紀の記述と合わないことが明らかとなった。他方、現在の国道25号付近を通っていたと見られる渋河道や龍田道の沿道には、四天王寺や渋川廃寺、船橋廃寺、斑鳩寺(法隆寺)など7世紀初頭から前半に建立された寺院や同時代の遺跡が分布している。こうしたところから、置かれた当初の大道は、難波津から南下した後、堺市内には入らず、四天王寺のあたりで渋河道に合流して柏原市域を通り、さらに斑鳩を経由して飛鳥に向かっていたのではないかと考えられるという。

 同企画展は、古代寺院や遺跡の分布という新たな視点から推古天皇時代の大道のルートの通説に挑み、当時の柏原市域の位置づけなどを考える。

 

講演会も開催

 同企画展の開催に併せ、7月下旬には大道をテーマにした文化財講演会の開催も予定されている。文化財講演会について、くわしくは、その都度、同市の広報誌「広報かしわら」や同文化財課の公式ホームページなどに掲載される。 同歴史資料館では、「古代の道を通して郷土の歴史への理解を深めてもらえれば」などと話している。 夏季企画展「難波より京に至る大道を置く」について、くわしくは、同歴史資料館(072-976-3430)まで。

 

難波より展

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文化財課
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