郷土・柏原の戦争ミステリー

2014年9月3日 (文化財課)

1 大和川に不発弾 米軍の12.7センチ艦砲弾発見  なぜ、こんなところに?

 昭和54年(1979)7月2日、柏原市青谷の大和川右岸で不発弾が発見された。行方不明者を捜索中の奈良県警の機動隊員らが、川の瀬の砂の中に埋まっている不審物を発見したところ、なんとこれが、第2次世界大戦中のアメリカ海軍の12.7センチ艦砲弾だったのだ。

 6月30日、大和川の奈良県側で行方不明者が出たことから、同県警高田署員らが機動隊の応援を得て、範囲を大阪府(柏原市)側にまで広げ、捜索していた。このとき、頭だけ砂から出ていた砲弾が発見されたのである。

 発見された砲弾は、長さ約37センチ、周囲約40センチ(直径12.7センチ=5インチ)、重さ約10キロ。アメリカ海軍の艦砲弾だと推定される。時限信管(タイマー式の信管)であることから、高射砲弾として発射されたものらしい。陸上を砲撃するなら着発式信管(瞬発信管など)が使われたはずだ。当時のアメリカ海軍の艦艇には、対艦対空兼用の12.7センチ砲が装備されていたという。高射砲(対空用)として使用するときには、当時、新兵器だった近接信管(VT信管=センサー検知式の信管)が使用されていたが、全部が全部ではなかった。旧来の時限信管も、なお使用されていたとされる。 しかし、12.7センチ砲の最大射程は、15~18キロ。対して、大阪湾から青谷までは約17キロある。大阪湾から仰角44~45度で発射すれば、理論的には青谷まで届くことにはなる。とはいえ、高射砲として使ったのなら、もっと高角度(少なくとも50~60度以上)で撃ったことだろう。いや、その前に、そもそも、いかに戦争末期の日本劣勢下の状況とはいえ、大阪湾にまで入り込んで来るアメリカ軍の艦艇がいたとは思えない。事実、そんな話は聞いたことがない。では、いったい、どういうことなのか。終戦直後に、わざわざ、ここまで捨てに来たのだろうか。それも考え難い。マリアナ沖海戦(昭和19年(1944)6月)あたりで撃った弾が時空を超えて飛来した? SF小説のネタになりそうだ。 この真夏のミステリー、真相は、今に至るも全くの不明である。

 ところで、この砲弾、最初に発見した機動隊員は、足で軽く蹴ってみたという。それで、けっこう大きいなものが深く埋まっていることが分かったのだという。よく、爆発しなかったものだ。足で蹴るなど、不発弾を発見したときに一番やってはならないことである。不発弾というものは、着弾したときに、たまたま爆発しなかっただけで、しかも火薬は半永久的に「生きている」のだから。 砲弾は、陸上自衛隊第3師団の爆発物処理班によって、回収のうえ処理されたという。

 しかし、重さ約10キロという当時の報道が正確なら、12.7センチ砲弾としては少々軽いような気もする(砲弾本体だけで20~30キロとされる)。あるいは、火薬はすでに抜かれていたのかもしれない。それに、大戦末期には大量需要に応えるため、アメリカでも、砲弾や爆弾などは、かなり粗製乱造だったという話もある。ひょっとすると、この砲弾、実は「不良品」で、最初から火薬は入っていなかったのかも。軽いために、その分遠くまで飛んだとか。

 

2 堅上駅近くの山中に海軍の地下秘密工場? 果たして真相は?

 第2次世界大戦末期(昭和19年(1944)~20年(1945)ごろ)、JR関西本線(大和路線)河内堅上駅近く、柏原市青谷の山中で海軍の地下秘密工場の建設が進められていた、という話がある。 平成5年8月15日付けの毎日新聞(大阪版)朝刊の報道によると、奈良県在住の方が証言したという。当時、臨時に海軍将校の運転手を務めており、将校とともに現地を訪れ建設現場を目撃したとのことだ。そのとき将校から「ここで見たことは、誰にも言うな」などと口止めされたとか。 砲弾の部品を作るための工場で、山の崖面に幅数十メートル、奥行き100メートルもの巨大なトンネル状の空間が3本も掘られ、そこに工作機械などが運び込まれていたとされる。建設途中で終戦となり完成には至らなかったが、朝鮮人労働者と思われる人たちなど、100人以上が掘削作業などに従事させられていたという。見張りの兵士たち(海軍陸戦隊か?)もいたらしい。にもかかわらず、防衛省などの記録には、全く残っていないようだ。

 しかし、この話には、いくつかの疑問がある。 現場は、関西本線の線路のすぐそばである。隣接しているといってもよい近さだ。線路をはさんだ反対側には、これまた、すぐそばに大和川が流れ、線路から川に向かって斜面が落ち込んでいる。その斜面の途中、線路と川の間には細い道も通っている。非常に狭く煩雑な立地だ。確かに目立たない場所だが、線路のすぐそばというのが気にかかる。駅も近い。空からの偵察で、たとえ工場は見つからなくても、線路や駅が攻撃目標になれば巻き添えを喰ってしまうだろう。立地としては不適当というべきではないだろうか。その前に、そもそも、こんなところに、そんな大規模な地下工場を秘密裏に作ることができるのだろうかという疑問もある。 戦争当時、この付近には民家などがなかったため、これまで、この工場のことが知られなかったのでは(前記毎日新聞記事)、などとされるが、ほんの100メートルほど西側には河内堅上駅(昭和2年(1927)4月開業)がある。つまり、このあたりは、確かに集落の中心部からは外れているが、いってみれば、このあたりの「玄関」先に相当する場所である。そんなところに大規模な地下工場を建設して、人の耳目に入らないわけがない。また、地元の語り草にならないわけがない。おまけに線路沿いだ。列車も通る。目立つことこの上ないのではないだろうか。 ところが、実際には、そんなことは、全く知られていない。100人以上もの作業員、宿舎、見張りの兵士、出入りする海軍将校・・・。そういったことを知る人は、地元には誰もいない。噂を聞いた人もいない。親や祖父母から、それらしい話を聞いた人もいない。少なくとも、平成5年に市の広報担当者が地元で聞き取り調査した限りでは。

 また、そんなに大きな施設が建設されていたのだろうかという疑問もある。平成5年の新聞報道当時でさえ、すでに大部分が埋まっており、「南側のトンネル1本の入り口の上部がわずかに露出」(前記毎日新聞記事)しているだけだったという。そんなに急激に埋まるものだろうか。このあたりで、大規模な土砂崩れなどの災害があったとは聞かない。そうすると、終戦前後に人為的に埋めたということになるが、それでは、いったい、どんな必要性があって、という新たな疑問がわく。財宝でも隠匿したのだろうか。話としてはおもしろいが、現実性としてはどうだろう。財宝隠匿なら、それこそ、噂の花盛りとなるのではないだろうか。 しかも、なぜ、海軍将校が、という疑問もある。また、なぜ、記録に残っていないのか。

 こうなると、もはや都市伝説の類だ。 それでは、いったい、この話の出所はどこにあるのだろうか。それを解くカギが大和川の対岸(南岸)にあった。 大和川をはさんで、現場のちょうど対岸に、かつて大規模な採石場があった。現在は、すでに操業を終えているが、第2次世界大戦前から平成の初めごろまで操業していた採石場だ。かつては、採石場から大和川を渡って関西本線の線路側まで、砕石運搬用のベルトコンベアが架けられていた。つまり、この「地下秘密工場」というのは、採石場の何らかの関連施設だと考えられるのではないだろうか。積み出し用の集積場とか資材や機器の保管場所とか。採石場なら誰もが知っている施設だし、多数の作業員が働いていても不自然ではない。地元の人たちも、さして気にも留めないだろう。そう考える方が自然ではないだろうか。

 当時(第2次世界大戦末期)は、松代大本営(皇居、大本営、政府機関などを現在の長野県長野市松代地区の地下に移す計画。昭和19年11月から工事開始、終戦で中止)など、本土決戦を想定した施設の地下化が計画されていた時期だ。軍需工場や弾薬庫などの地下化も進められていたという。砲弾の部品製造ということであれば、海軍将校がからんでいても不自然ではない。しかし、それなら、本土決戦に備えた、そうした施設の建設用原材料、コンクリート用の砕石調達も無視できないことだったと思われる。こうしたところから、砕石場にも軍がかかわっており、この「地下秘密工場」(=採石場の関連施設)が設けられたのではないだろうか。もし、そうであれば、軍需工場として、何らの記録も残っていないのも当然だ。

 巨大なトンネル状であったとされる施設だが、前述のとおり、現在では、わずかに開口部の一部とおぼしき部分が認められるにすぎない。果たして、この「施設」、本当は何だったのか、今となっては、ただ想像する以外にない。

 

追 記

 仮に、この「地下秘密工場」が実際に軍需工場だったとしても、砲弾の部品工場で、かつ未完成だったとされることから見て、昭和54年に大和川の中で発見された砲弾との関連性はないものと思われる。この「地下秘密工場」で作った砲弾ではないだろう。アメリカ製だというし。それとも、すでに察知していたアメリカ軍が、早くも攻撃を加えていたのだろうか。射程外から?

 

3 埋められた? 忠魂碑建設委員碑 GHQの追及を恐れる?

 柏原市立柏原小学校の正門近くに忠魂碑が建てられている。 忠魂碑とは、明治以後、第2次世界大戦の終戦まで、全国各地で建設された、戦死した軍人の慰霊や顕彰を目的とした碑だ。在郷軍人会などが中心となって、市町村ごとに建てられたという。現在の柏原市域でも、この柏原小学校前のもののほか、堅下小学校横や雁多尾畑地区などにも建てられた。柏原小学校前の忠魂碑には、その建設に関わったと見られる人たち約30人の氏名を刻んだ「忠魂碑建設委員碑」が併設されている。 ところが、この忠魂碑建設委員碑、どうしたことか、忠魂碑そばの土中に埋められていたようなのだ。昭和58年(1983)ごろに撮影された写真を見ると、横向きの姿勢で斜めに、地面に突き刺さったような状態になっている。昭和55年(1980)ごろまでは、碑のまわりに土盛りが認められたという。自然に倒れたのではない、人為的に倒され埋められたと思われる状況だ。

 さらに、よく見ると、忠魂碑そのものの裏面にも、そこに刻まれている文字を意図的に消したと思われる痕跡が認められる。このため、この忠魂碑が、いつ、誰によって建設されたのか、分からなくなっているのだ。

 碑の表面には、「忠魂碑」という文字の向かって斜め左下に「陸軍大将植田謙吉書」とある。植田謙吉(明治8年(1875)3月8日~昭和37年(1962)9月11日)という人は、大阪府出身の陸軍軍人で、昭和9年(1934)11月に大将となっている。その後、昭和11年(1936)3月から昭和14年(1939)9月まで関東軍司令官兼満州国駐箚(ちゅうさつ=命により派遣されて駐在すること)特命全権大使を務めた。同年12月に予備役編入(現役の軍人でなくなること。要するに退職)。戦後は、日本戦友団体連合会会長などを歴任したようだ。こうしたところから、植田大将によって、この忠魂碑が揮毫(きごう=文字などを書くこと)されたのは、昭和9年11月以降と推測される。関東軍司令官などとして満州(現在の中国東北部)に赴任していた期間を除けば、昭和9年11月~昭和11年3月か昭和14年9月~12月の間だと思われる。予備役編入以降に揮毫された可能性もあるが、堅下小学校横の碑が昭和9年、堅上地区の碑が昭和6年(1931)の建設であることから見て、この碑も同じような時期、つまり昭和9年11月~昭和11年3月の間に揮毫され、そのころに建設されたと推定できるのではないだろうか。植田大将が予備役編入となったのは、昭和14年5月~9月に起こったノモンハン事件の責任をとらされたためだという。となると、この時期には(参謀本部付、待命などとなっていたので)揮毫を依頼し難かったかもしれない。

 昭和20年(1945)8月の終戦(敗戦)で、わが国は、連合国軍に占領されることとなった。その占領政策を担当したのがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)である。柏原の近辺にも進駐軍(占領軍)がやってきたことだろう。当時、現在の市民文化センターの位置にあった産業報国会館の建物(後に市役所)もGHQに接収され、将校クラブとなっていた。終戦後しばらくは、GHQによって「戦争犯罪人(戦犯)」や「軍国主義者」の追及が厳しく行われていた。東京裁判に代表される「戦犯裁判」や「軍国主義者」の公職追放などだ。こうした追及は、国の指導者層だけでなく、一般市民にも無縁ではなかった。

 そうした風は、当然、当時の柏原にも及んでいたことだろう。追及への恐怖や不安が人々の間に渦巻いていたと想像される。忠魂碑建設委員碑は、こうした時代背景の中、GHQの追及を恐れた人々によって、土中に埋められたものと思われる。忠魂碑本体裏面の文字が消されたのも同じころのことだろう。そして、いつしか、埋められた経緯はもとより、建設の経緯すら忘れられていった。埋められた碑や消された碑文が、その後、長く元に戻されることもなかった。昭和58年ごろ、市の総務課(庶務課)員が、忠魂碑建設委員碑に氏名が刻まれている人たちのうち、そのころ存命だった人に聞き取り調査しようとしたことがある。しかし、その回答は「(当時、自分は若かったので経緯については)よく知らない」というものだった。 終戦直後、実際には、どのような「ドラマ」が展開されたのだろうか。くわしいことは、今となっては分からない。しかし、これも戦後郷土史の一コマである。この忠魂碑は、JR柏原駅前再開発に伴う道路拡張工事などによって、平成17年(2005)ごろ、元の位置から少し西側に位置を変えて設置しなおされた。忠魂碑建設委員碑も、しっかり併設されている。

 ちなみに国分地区には、忠魂碑は残されていない。終戦後に撤去されたのか、それとも最初から建設されなかったのか。

(文責:宮本知幸)

 

【戦死した人】

 現在の柏原市域の出身者(柏原市籍の人)で明治以後に戦死した人の数は、忠魂碑が建設されたと思われる昭和10年(1935)ごろまでだと計24人(柏原2人、堅下10人、堅上7人、国分5人)だった。しかし、第2次世界大戦勃発以後急増し、最終的に、計726人に達している。このほか、空襲などで亡くなった一般の人(戦災死)も市域内の被害で10人余りいるとみられる。

 

【ノモンハン事件】

 満州とモンゴルの国境をめぐる紛争の一つ。主として、日本軍とソ連軍が軍事衝突した。ハルハ川の戦闘、ハルハ河戦役などともいう。日ソ両軍で計4万人以上もの死傷者を出したとされる。「事件」と呼ばれているが、事実上「戦争」である。

 

【GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)】

 General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers。日本が受け入れたポツダム宣言の執行を目的とする、連合国の組織、機関。GHQという略称は、その最初の部分(General Headquarters)の頭文字。設置期間は、昭和20年10月から、サンフランシスコ講和条約により日本が独立を回復する、昭和27年(1952)4月まで。最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥以下、職員の大部分はアメリカ人(軍人と民間人)だった。

 

【戦犯裁判】

 連合国が布告した国際軍事裁判所条例(国際軍事裁判所憲章ともいう。極東国際軍事裁判所条例=昭和21年(1946)1月発効、などがある)に基づく裁判。同条例の犯罪類型には、A項(平和に対する罪)、B項(通例の戦争犯罪)、C項(人道に対する罪)がある。日本では、一般に「A級」「BC級」などと言われているが、A級の方がBC級より重いという意味ではない。日本やドイツなど、第2次世界大戦の敗戦国が対象となった。

 日本関連では、日本国内と戦争地域となった海外で、日本の軍人や軍属などが逮捕、起訴された。逮捕者の正確な数は分からないが、少なくとも1万人以上だと推定されている。延べ約5,700人が起訴され、計2,000件以上の裁判が行われた。そして、約1,000人もの人が死刑となった。「裁判という名の復讐」などとも言われ、冤罪も少なくなかったとされる。

 同条例の犯罪類型(特にA項)に対しては、国際法上の疑義も出されている。戦時国際法(戦争など武力行使を前提としている)があるからだ。事実、すでにB項との間に矛盾を生じている。また、事後法で裁判すること(行為の当時違法でなかったことが後に違法とされたような場合、違法とされる前の行為を違法とされた後の法律で裁くこと)も疑問とされた。ちなみに国連憲章でも武力行使を想定している(前文、第42条、第46条、第51条等)。

 なお、戦犯とされた人々に対しては、戦後、国会決議(昭和27年6月、12月、昭和28年(1953)8月等)や戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正(昭和27年4月施行)などにより、死刑となった人たちは「公務死」として扱われるなど、法的、実質的名誉回復が行われている。

 

参 考

「柏原新聞」 1979.7.26付け (柏原新聞社)「毎日新聞」 1993.8.15付け朝刊 (毎日新聞大阪本社)「柏原町史」 1955.3.20  柏原町(現・柏原市)「河内国分」 1955.2.11  国分町(現・柏原市)「柏原市史」第3巻 1972.3.31 柏原市 「戦争中の話」第1集 2000.8.1 柏原市     他

(文責:宮本知幸)

 

忠魂碑

忠魂碑裏側

忠魂碑 忠魂碑裏側

 

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