ちょっと昔の柏原

2011年6月1日 (文化財課)

1 「柏原市史」「柏原新聞」などに見る 昭和30~40年代の柏原市、社会・世相

 柏原市が市制を施行したのは、今から約50年前の昭和33年(1958)10月。昭和30年代を舞台にした映画「3丁目の夕日」の新作が公開されるなど、当時の社会や世相が関心を集めている。  さて、それでは、そのころの郷土・柏原はどんなようすだったのだろう。柏原市史や柏原新聞などを通じて、少し当時にタイムスリップしてみることにしよう。

 

市制施行当時の市内のテレビ台数は約700台

 昭和33年(1958)、当時の柏原町が大阪府に提出した市制申請書によると、市内のテレビ台数は昭和33年3月31日現在で708台だった。

 しかし、これより前、昭和30年(1955)7月20日に大阪学芸大学(現・大阪教育大学)の学生が行った調査では、わずか5台にすぎなかった。ところが、それが昭和34年(1959)3月末には、なんと1,646台に急増している(「柏原市建設計画書」)。  市制施行時期は、ちょうど、わが国の家電普及期と重なっているようである。現在は、市内に、さて何台のテレビがあるのだろうか。多すぎて、ちょっと分からない?

 今では、そんな統計もとられていないし、パソコンや携帯(電話)でもテレビ放送を見ることができるのだから。

 

昭和35年、市内の乗用車は全部で8台

 昭和33年(1958)ごろ、軽自動車が発売され、日本は「モータリゼーション」の時代に入ったとされる。  昭和35年(1960)4月1日現在、市内の自動車台数は、乗用車が8台、貨物用(トラック)が237台、乗合用(バス)が1台、そして、軽自動車が526台だったという。  それが、約10年後の昭和44年(1969)には、乗用車2,783台、トラック2,992台、バス15台、軽自動車2,373台という急増ぶりを見せている。モータリゼーション化の名に恥じず、また、高度経済成長の波に乗ってか、乗用車の伸びがすさまじい。

 ところで、現在は?

 平成22年(2010)3月末の数字で、乗用車1万6,216台、トラック1,420台、バス9台、軽自動車1万299台(2輪を含む)となっている。 昭和44年と比較して、トラックは約半分に減っており、バスも減っているが、乗用車で約6倍、軽自動車では4倍以上という増加率を示している。昭和35年 当時と比較すると、軽自動車で19倍以上、乗用車に至っては実に2,000倍以上もの伸びである。

 

国道25号は、軍の飛行場か?

 今では、何かと渋滞が取りざたされる国道25号だが、昭和6~7年(1931~1932)ごろの建設、開通当時には、その「あまりの広さ」から、軍が飛行場にすると、もっぱらの噂だったとか。

 

初めての完全舗装の市道完成

 柏原市初めての完全舗装の市道が、昭和37年(1962)5月に完成した。国分昭和町旭ヶ丘線、幅員8メートル、延長240メートルで、昭和35年度(1960)から工事が進められていた。総工費は、688万円。国分中学校から国道25号に通じる道路である。

 

第2室戸台風で大きな被害、市内小中学校の運動会は全面中止に

 近畿地方一帯を襲った第2室戸台風による被害のため、昭和36年(1961)、市内小中学校など学校園の秋の運動会は、すべて中止となった。教育委員会での中止決定より先、学校園長会でも、練習成果発表会に留めるなど、自粛が申し合わされていた。

 第2室戸台風(台風18号)は、昭和36年9月16日に室戸岬に上陸、昭和9年(1934)9月の室戸台風と、ほぼ同じコースを通って近畿を直撃、各地 に大きな被害をもたらした。最低中心気圧は918ヘクトパスカル、最大瞬間風速は84.5メートル。全国の被害は、死者行方不明者202名、負傷者 4,972名、家屋の全壊約1万5,000戸、半壊約4万7,000戸、床上浸水約12万3,000戸、床下浸水約26万1,000戸にもおよぶ。

 昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風(台風15号)での経験から防災対策が進み、被害が抑えられたともいわれているが、昭和26年(1951)に気象庁が統計を取り始めて以降、最大規模の台風とあって、被害も決して小さくはなかった。

 柏原市内では、家屋の全半壊70戸などのほか、約400ヘクタールが壊滅に近い打撃を受けるなど、特にぶどう園の被害が大きかった。市内の被害総額は、 約3億円(当時の市の予算規模は約10億円)に達したという。また、八尾市柏原市火葬場組合の火葬場も完全に損壊、使用不能の状態となった。

 ちなみに、第2室戸台風の国際名は「Nancy(ナンシー)」、伊勢湾台風は「Vera(ベラ)」という。

 

市議会議員選挙にも影響、第2室戸台風

 昭和36年(1961)9月8日に発生した第2室戸台風(台風18号)は、16日午前9時ごろ高知県室戸岬東方に上陸。同日午後1時過ぎには、兵庫県尼崎市と西宮市の中間あたりに再上陸した。  折から、柏原市では市議会議員選挙の真っ最中、投票日を翌17日にひかえていた。超大型台風の接近で、16日夕方から市内全域が停電。予定どおり投票を決行すべきかどうか、市選挙管理委員会では、ロウソクの灯りの中で対応を協議したという。 

結果は、決行と決定。

 案に相違して、翌17日は、台風一過の晴天で、投票率も80.4パーセントに達した。この選挙で、新人5人を含む22人の新議員が誕生したのだった。  ところで、当時は、現在のような公営選挙ではなかった時代。選挙ポスターは、電柱といわず壁といわず、ところかまわず貼り放題で、その後の始末も、ろく に行われていなかった。ところが、このときの選挙では、大部分のポスターが台風で吹き飛ばされ、自然に掃除されてしまったということである。

 また、候補者の中には、しだいに風雨が強まる中、選挙のことなどには一言も触れず、市の広報車さながらに、台風への注意を市民に呼びかけて回る人もいた (その人は当選したようだ)。台風接近により交通機関が麻痺した中、候補者達が、乗用車や単車、オート三輪(映画「三丁目の夕日」に登場する3輪トラッ ク)などを総動員して、市民を勤務先などへ送迎する姿も見られたとか。

 このときの選挙から市議会議員の定数が、22となった。それまでの定数は30。ちなみに、現在(平成23年)の定数は、18である。

 

美陵町の3地区住民が、柏原市への編入を要望

 昭和33年(1958)ごろから36年(1961)ごろにかけて、美陵町(現・藤井寺市)の3つの地区の住民から、これらの地区を柏原市に編入してほしいという要望が出されていた。

 3つの地区とは、大和川の北岸に位置する、舟橋、北条、大井の各地区。地理的にも隣接し、日常の買い物も柏原市内の商店が利用されるなど、事実上、同じ経済圏に属しているところから、柏原市への編入を希望していたようだ。

 しかし、柏原市は、美陵町による3地区の分町決議がなければ編入できないと、この要望を事実上拒否していた。

 実は、編入の結果生じる小中学校の新設や水道敷設など、予測される多額の経費が、市をためらわせていたのである。当時、多額の累積赤字をかかえ、国の承 認を受けた財政再建計画に従って、昭和38年度(1963)までに財政再建を目指す柏原市にとって、この編入問題は、非常に「実現困難な」課題だったよう である。

 

柏原警察署の移転にからみトラブル

 現在、国道25号沿い古町2丁目にある柏原警察署は、昭和37年(1962)ごろまで、JR柏原駅西口の、現在、再開発ビル「アゼリア」が建っているあたりにあった。

 それが、昭和37年(1963)8月に現在位置へ新築移転したわけだが(開署式は9月4日)、この移転に関連し、当時、疑惑がらみのトラブルがあった。昭和36年(1961)11月から12月ごろのことである。

 当時、市が負担した移転先用地の買収費が926万円。

 昭和29年(1954)まで柏原町警察であった関係からか(同年7月からは大阪府警)、元の用地は市の所有。そして、移転先の用地についても、市が提供することになっていた。移転後、市は、元の用地を1,527万円で売却する計画だったという。

 しかし、ここに疑惑が浮上した。  売却の見積価格は、坪(3.3平方メートル)あたり5万円だったが、実勢価格は8万円ではないかとされたこと、売却先が地元商店主らにより、この土地の 購入のために、にわかに設立された団体であったことなどが、そのきっかけである。団体は、この土地に5階建てのデパートを建設する計画だったようだ。

 市有地を売却するなら入札にするのがスジ、坪単価が低すぎる、建設するのは公共施設に限るなどの歯止めが必要、むしろ住宅を建設すべき・・・等々といっ た反対意見が出された。移転先用地が農地だったことから、移転に先立ち、土地の転用手続きが必要だったが、そのための申請が出されたと思ったら取り下げら れたりと、事務手続き上のごたごたを見せたことも疑惑に拍車をかけた。市議会議員の介入なども批判の対象となった。

 それから約50年、現在、前述のように、この土地も含めた一帯には、駅前再開発ビルが建っている。ビルに入っているのは、スーパーや医院、公共施設などなど・・・。マンションもある。  当時、トラブルの渦中にあった人達が、このようすを見たら、どんな感想をもらすだろうか。

 

※柏原町警察
 昭和23年(1948)3月、警察法の施行により、柏原警察(大正15年(1926)設置)を引き継いで発足した、い わゆる自治体(市町村)警察。この当時は、国家警察と自治体警察の二本立てで、自治体警察の運営経費については、すべて自治体(市町村)の負担とされたと ころから、財政的圧迫は大きかった。このため、廃止する自治体も少なくなかったという。同じころ発足した国分町警察も、その例にもれず、昭和27年 (1952)5月に廃止されたところから、警察法の改正もあって、翌6月から柏原町警察が両町を管轄する、国分柏原地区警察署となった。再度の警察法の改 正により、現在の大阪府柏原警察署となったのは、昭和29年(1954)7月のことである。当時は、柏原町、国分町、道明寺町の3町を管轄していた。

 

柏原中学校の土俵開きに幕内力士ら

 昭和37年(1962)2月28日、柏原中学校で建設が進められていた土俵が完成、その土俵開きに大相撲花籠部屋の幕内力士らが参列した。参列したの は、当時の人気力士、若乃花や若秩父ら。当日、土俵の周辺は黒山の人だかり、若秩父と中学生による「取組」も行われ、大変な熱気だった。  しかし、この土俵も校舎の移転新設などによって取り壊され、今はない。

 

立小便被害に辟易、市民が公衆トイレを設置 高井田市営駐車場

 昭和30年代、市内高井田の国道25号沿いに市営駐車場があった。昭和29年(1954)に観光施設として設置されたもので、広さは約1,000平方 メートル。当時の観光バスなら、約10台が1度に駐車することができた。駐車場といっても現在のイメージではなく、舗装もしていない単なる「広場」といっ たものだったようだが、国道沿いということで、春秋の観光シーズンには、1日あたり延べ約80台もの利用があったという。

 ところが、この駐車場には、公衆トイレが一つしかなかった。  このため、バスの乗客達が、ところかまわず、立小便をしていたのだ。1台に30~40人乗っていて80台来るとすれば、その人数は1日あたり約 2,000人~3,000人にも達する計算。バスは、トイレ休憩に立ち寄るわけだから、当然といえば当然の結果といえる。周辺の工場の塀などにも放尿被害 が出ており、近隣から苦情が続出していたようだ。

 「貧弱な観光施設が問題の原因」と、警察も市も抜本的解決に至れずにいたが、昭和37年(1962)11月になって、ようやく、一応の解決を見るに至っ た。たまりかねた近くの商店経営者が、私費で、30人が使用できる公衆トイレを建設したのである。このトイレは、後、市に寄付されたという。

 現在、この一画には、市の防災公園などが設けられている。

 

玉手山高校ボート部、国体初出場で準優勝

 昭和37年(1962)9月17日、岡山県児島湖で開催された、第17回国民体育大会・夏季大会女子漕艇の部で、玉手山高校(現・関西福祉科学大学附属高校。当時は女子高)ボート部が、初出場ながら、みごと準優勝に輝いた。

 学生時代にボート部だった教頭の指導のもと、毎日、桜ノ宮まででかけ、練習したという。  当時、大阪府内の高校で、女子のボート部があったのは、玉手山高校と住吉高校の2校だけだったということだ。  

 

※玉手山高
 
昭和17年(1942)、玉手山高等女学校として創立され、昭和23年(1948)、学制改革により玉手山高校となる。 経営母体の学校法人(玉手山学園)により、昭和40年(1965)に玉手山女子短期大学が開設。同短大は、翌、昭和41年(1966)には関西女子短期大 学と改称され、次いで、昭和49年(1974)に、玉手山高校は、関西女子短期大学附属高等学校と改称される。 さらに、平成9年(1997)には関西福祉科学大学が設立され、高校も、翌、平成10年(1998)に、関西福祉科学大学附属高校と改称され、現在に至っ ている。

 

道に迷った女子工員を小学生の女の子が保護

 昭和41年(1966)1月18日、道に迷って国鉄(現・JR)堅上駅近くで途方にくれていた女子工員を、たまたま近くを通りがかった小学生の女の子が保護するというできごとがあった。  保護されたのは、宮崎県から集団就職で奈良県高田市の紡績工場に来ていた17歳の女子工員。近鉄布施駅で同郷の友人と会うため、奈良県内から電車に乗っ たところ、途中でスリにあい、3,000円の入ったサイフを奪われたという。動転して途中下車したものの、地理不案内のため道に迷い、堅上まで来てしまっ たようだ。

 そこに通りがかったのが、堅上小学校5年生の女の子。途方にくれている女子工員に同情して、堅上駅から列車に乗り、柏原駅前の派出所まで送り届けたのだ。

 派出所からの連絡で、女子工員は、無事、会社に帰ることができた。対応した警察官も「小学5年生なのに機敏すぎる」と感心しきりだったとか。  さらに、このとき、派出所のようすを見て立ち寄った1人の市議会議員が、女子工員に同情して、すられたのと同額の3,000円を女子工員にプレゼントし ていたことが、後日、工場からの礼状で分かった。3,000円は、礼状といっしょに市議会議員あてに返却されたが、故郷を離れて働く少女への励ましになっ たと、評判だったという。

 

市役所旧庁舎跡地所有権訴訟

 昭和44年2月、上市4丁目の市役所旧庁舎跡地の所有権をめぐり、訴訟が提起された。訴えたのは、市民Tさん。市を相手取って、庁舎跡地は、自分の所有地だと主張したのだ。  市としては、市役所の現在地(安堂町)への移転に伴い、同地の売却を予定していたのだが、この訴えにより、当面、見送らざるを得ない事態となった。

 市役所旧庁舎は、第2次世界大戦の終戦まで、当時の全国的労働者団体であった産業報国会柏原支部の会館だったもの。戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総 司令部)に接収されていたが、昭和25年(1950)に当時の柏原町が、268万8,000円で国から払い下げを受け、以後、役場、市役所として使用されていた。

 Tさんは、その産業報国会柏原支部長だった人。土地の名義は、産業報国会ではなくTさん個人になっていると、所有権を主張したのである。

 裁判は4年越しの争いとなり、口頭弁論も10回以上に及んだ。その間、Tさん自身が亡くなるという展開も見せた。

 昭和48年1月に至り、大阪地方裁判所は、ついに判決を下した。

 原告の請求棄却。不動産登記は、便宜上Tさん名義になっていたにすぎず、実際の所有権者は産業報国会だった。したがって、現在の所有権者は柏原市。市勝訴の判決である。

 ところが、これで決着がついたと思ったのもつかのま、直後に裁判所のミスが判明した。なんと、原告が、亡くなったTさんのままになっていたのだ。すでにTさんの親族に引き継がれていたのにもかかわらず。

 このミスをつくようにして、原告側は、直ちに控訴。さらに訴訟は継続することとなった。

 結局、大阪高等裁判所で、改めて、市勝訴の判決が出たのは、昭和50年(1975)11月のことだった。実に6年10か月ぶりの終結だった。

 このため、跡地売却の計画も、跡地に総合体育館を建てるという計画も、すべて、ストップしてしまっていた。そこに、ようやく、現在ある文化センターが建設されたのは、昭和53年(1978)のことである。それまで、同地は、空き地のまま、一般に開放されていた。  

 

※産業報国会
 
すべての労働組合を組み込んで、昭和15年(1940)に結成された、官製の労働組織。昭和20年(1945)、終戦により解散された。

 

  2 陳情は「大和」に乗って (柏原市の誕生異聞)

~かつて、関西本線を走り、湊町(現・JR難波)と東京を結ぶ急行列車があった~

 昭和32年(1957)ごろ、地方自治法の市制施行要件改正のため、当時の柏原町は、全国の類似町村の先頭に立って、再三上京、国会などへの陳情を繰り返していた。

 このとき、よく利用されたのが、当時、大阪の湊町駅(現在のJR難波駅)と東京駅を結んでいた寝台急行「大和」である。湊町~東京間を約10時間半で結んでいた。

 今では、関西本線を走る直通列車はJR難波~名古屋間にさえない。関西本線自体、すでに幹線鉄道としての性格を失っている。しかし、当時は関西本線だけでなく、そこから東海道本線をも走る長距離直通列車が運行されていたのである。

 急行「大和」の原型は、昭和23年(1948)7月から、東京~名古屋間で不定期運行された準急列車だといわれている。翌、昭和24年(1949)9月 に定期運行となり、さらに昭和25年(1950)10月には急行に格上げされている。「大和」と名づけられたのは、その翌月、11月のことだったようだ。 運行区間も湊町駅まで延長された。

 残念ながら「大和」は柏原駅には停車しなかったので、柏原町の陳情団は柏原駅から天王寺駅または王寺駅へ向かい、そこから「大和」に乗り込まなければならなかった。

 午後10時半ごろに天王寺駅を発車した「大和」は、翌朝の9時すぎ、東京駅に到着した。途中の停車駅は、王寺、奈良、伊賀上野、柘植、亀山、四日市、桑名、名古屋、浜松、静岡、沼津、熱海、小田原、大船、横浜、品川。

 東京駅を起点にして見た場合、名古屋駅から北陸方面へ向かう急行「能登」が、「大和」に併結されていた時期もあった。さらに「大和」も王寺駅で分かれ、 一部は湊町駅へ、一部は和歌山市駅に向かうという形で運行されていた時期もあったという。全部で14両編成、そのうち6両が「大和」、8両が「能登」で、 「大和」の6両のうち5両が湊町行き、1両が和歌山市行きである。

 昭和32年ごろ、大阪~東京間を結ぶ列車は、特急「つばめ」と「はと」(所要時間は7時間30分)、急行「阿蘇」(9時間10分)、寝台急行「銀河」(10時間30分)などだった。

 今と比べると、ずいぶん時間がかかっているようだが、これでも昭和31年(1956)に東海道本線全線の電化が完了し、それまでより早くなっているのだ。昭和33年(1958)には、特急「こだま」が運転を始め、さらに早くなっている(所要時間は6時間50分)。

 車両も今のように「普通」と「グリーン」ではなく、1等~3等に分かれていた。ただし、昭和33年ごろには、1等は特急「つばめ」と「はと」の展望車だ けだったので、一般的には2等と3等の区分だけだったようだ。その意味からすれば、当時の2等が現在のグリーンに相当すると言えるだろう。昭和35年 (1960)には、1等が廃止され、それまでの2等が1等に、3等が2等に「格上げ」されている。

 「大和」で東京まで行く場合、料金は、3等で2,000円ほどだったと思われる(急行料金、寝台料金込み)。ちなみに、伊丹(大阪、兵庫)~羽田(東京)間の片道航空運賃は、6,000円あまりだった。

 新幹線が開業する前、今のように航空機が一般化する以前、鉄道が主要交通手段だったころの話である。

 新幹線の開業は、昭和39年(1964)10月。「大和」が廃止されたのは、昭和43年(1968)9月のことだった。ただし、このときは、急行「那智」や「伊勢」と合体して、新たに急行「紀伊」として生まれ変わったのであるが。

 その後、昭和47年(1972)3月に、東京駅と大阪駅を結ぶ急行「銀河」が、「紀伊」に並結された。大阪駅へ向かう「銀河」は、名古屋駅から先も東海 道本線を走ったことだろう。関西本線を走る長距離直通列車は、このころ、消えてしまったようである。そして、「紀伊」は、その後、昭和50年 (1975)3月、特急に格上げされたものの、昭和59年(1984)2月に廃止されている。「銀河」も、つい先年(平成20年(2008)3月)廃止さ れたことは、皆さんもご承知のとおりである。

 現在、柏原駅から東京駅まで鉄道を利用すると、料金は計1万3,450円(運賃8,720円、新幹線の特急料金4,730円)。新幹線の新大阪~東京間 の料金は、特急料金込みで、1万3,240円(所要時間約2時間40分)。大阪~羽田間、関空~羽田間の正規航空運賃は、ともに2万2,500円(所要時 間約1時間10分)である(平成23年4月現在)。  

 

※ 急行「大和」などについて、くわしい情報(写真や当時の時刻表など)をお持ちの方は、文化財課(976-3430、市立歴史資料館内)まで、お知らせください。


(文責:宮本知幸)

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話:072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431