柏原市域に関係する詩歌 市域内で詠まれた歌など

2012年12月18日

万葉集

○ 海(わた)の底(そこ) 沖つ白波 竜田山 いつか越ゆらむ 妹(いも)があたり見む 【古歌(万葉集1-83)】

(海の底、沖の白波が立つ、竜田山を越えるのはいつの日だろうか、早く越えていって、あの娘の住むあたりを見たい)  

※ 古今和歌集(18-994)「風ふけば おきつ白波 竜田山 夜はにや君が ひとりこゆらむ」の元歌だといわれる歌。

※ 和銅5年(712)、長田王(ながたのおほきみ)を伊勢の斎宮(いつきのみや)に派遣するとき、「山辺(やまのべ)の御井(みい)で詠まれたとされ るが、それでは不自然なので(竜田山は奈良から河内に向かう途中にあり、奈良から伊勢に向かう途中にはないため)、そのとき口ずさまれた「古歌」だろう か」、と万葉集の注釈にある。そうであれば、この当時すでに、昔から歌い継がれていた歌だったということになる。古今和歌集の18-994は、そのパロ ディであり、こうしたところからも18-994は「詠み人知らず」となっているものと思われる。    

 

○ 家にあらば 妹(いも)が手まかむ 草枕 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ 聖徳太子(万葉集3- 415)  

(家にいたなら妻の手枕だろうに 旅に出て行き倒れておられる この旅人は哀れだ)

※ 聖徳太子が、竹原井に来たとき、竜田山で行き倒れの死人を見て詠んだ歌。竹原井は、柏原市青谷付近。後に(8世紀ごろ)、行宮(あんぐう)(離宮)が営まれる 

 

○ 君により 言(こと)の繁(しげ)きを 故郷(ふるさと)の 明日香の川に(竜田越え 三津の浜辺に) みそぎしに行く 【八代女王(やしろのおほきみ)(万葉集4- 626)】

(帝との関係のことで噂が広まり嫉妬による噂話で身が穢れたので、旧都である飛鳥の明日香川へ《竜田を越えて難波の三津の浜辺へ》みそぎをしに行く)

※ 「ある本に下の句は『竜田越え 三津の浜辺に』とある」、との注釈付きで万葉集に収録されている。「君」とは、聖武天皇のこと。

 

○ 人もねの うらぶれ居(を)るに 竜田山 御馬(みま)近付かば 忘らしなむか 【山上憶良(万葉集5- 877)】

 (人が皆、失意の中にいるというのに、竜田山にお馬が近づいたら、どうせ、(私たちのことやここでの勤務のことなどは、すべて)お忘れになってしまうのでしょう)  ※ 書殿で送別の宴会を開いたときの歌4首のうちの1首。書殿は、大宰府の書籍類管理用殿舎のことだとされる。人事異動で都へ栄転する者を羨む、栄転できなかった者たちの屈折した心境か。竜田山を越えれば、そこは、もう都の地である。

 

○ 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に 打ち越えて 旅行く君は 五百重山(いほへやま) い行きさくみ 賊(あた)守る 筑紫に至り 山の 極(そき) 野の極見よと 伴の部を 班(あが)ち遣はし 山彦の 答えむ極み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 国形を 見(め)したまひて 冬こもり  春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 岡辺の道に 紅躑躅(につつじ)の にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参(ま)ゐ出 む 君が来まさば 【高橋虫麻呂(万葉集6-971)】

 (龍田山が露や霜によって色づくころ、その龍田山を越え て旅立つあなたは、幾重にも重なる山を踏み分け、国防の拠点である筑紫に至り、山の果て、野の果てまで視察せよと、部下をあちこちへ派遣し、山彦の応じる 声が聞こえる限り、ヒキガエルが這い回る限り、国のようすをご覧になって、春になったら飛ぶ鳥のように早く帰っていらっしゃい、龍田道の岡辺の道に、紅の ツツジが映えるとき、桜の花が咲くときに、私はお迎えにまいりましょう、あなたが帰っていらっしゃるなら)  

 (反歌)

○ 千万(ちよろず)の 軍(いくさ)なりとも 言挙げせず 取りて来(き)ぬべき 男(をとこ)とぞ思ふ 【高橋虫麻呂(万葉集6-972)】

 (敵が千万の大軍であろうとも、あれこれ言わずに討ちとって来るに違いない、あなたはそんな男だと思う) ※ 天平4年(732)、藤原宇合(うまかい)が西海道の節度使として派遣されるとき、高橋虫麻呂が詠んだ歌。節度使は、唐の制度にならって、この年、臨時に設けられた。国内の治安維持と新羅に対する軍備など、軍団の引き締めが目的とされる。

 

○ 父君に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(ははとじ)に 我は愛子ぞ 参(ま)ゐ上(のぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 恐(かしこ)の坂に 幣奉(ぬさまつ)り 我はぞ追へる 遠き土左道(とさぢ)を 【石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)(万葉集6- 1022)】

(父君にとって私は愛しい子、お母様にとっても愛しい子。(そのような名門の出身である私が土佐へ配流になってしまった)都へ上る多くの人々が手向けする、恐の坂に捧げものをして、私はたどっていく、遠い土佐へ向かう道を。)

※ 石上乙麻呂が、土佐に流されるときに詠んだ歌。恐の坂は、諸説あるが、柏原市峠、亀の瀬あたり(懼坂(かしこさか))であると解釈される。同地は、古くから地すべりが起こっており、現在も対策工事などが続けられている。

(反歌)

○ 大崎の 神の小浜(をばま)は 小さけど 百船人(ももふなびと)も過ぐといはなくに 【石上乙麻呂(万葉集6-1023)】

 (大崎の神の小浜は、小さい船着き場だが、多くの船人も海路の安全祈願をしないで素通りするということはないとのことだ)

※ この歌は、和歌山県和歌山市の田倉崎(大崎)(近くに淡島神社がある)のことを詠んだ歌だが、6-1022の反歌となっているので、併せて紹介する。

 

○ 朝霞 止まずたなびく 竜田山 船出しなむ日 我恋ひむかも 【作者不明(万葉集7-1181)】

 (朝霞が、やむことなくたなびいている竜田山、船出する日、私は恋しく思うことだろう)

 

○ 級照(しなて)る 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれなゐ)の赤裳裾引(あかもすそび)き 山藍(やまあ ゐ)もち 摺(す)れる衣着(きぬき)て ただ独り い渡らす児(こ)は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の独りか寝(ぬ)らむ 問わまく の 欲しき我妹(わぎも)が 家(いへ)の知らなく 【高橋虫麻呂(万葉集9-1742)】

 (片足羽川の赤い丹塗りの大橋の上を、紅の裳裾を引き、山藍で摺り染めにした衣を着て、ただ独りで渡って行かれる娘は、結婚しているのだろうか、独りで寝ているのだろうか、訊いてみたい、彼女にしたい子だけれど、住んでいるところを知らない)

※ 「片足羽川」とは、大和川のこと。当時の大和川は、現在、柏原市役所があるあたりから北流していた(現在は同地から西流している)が、そのあたりに大橋(河内大橋)が架かっていたと考えられている。

※ところで、「山藍(ヤマアイ)」というのは、奈良時代ごろ中国から入ってきたイヌダテの藍(蓼藍・タデアイ)に対して、その当時すでに我が国にあった藍のことを呼んだものだという。どちらも植物であり、染料として用いられた。しかし、「蓼藍」はブルーだが、「山藍」はグリーンである。あるいは、当時の日本人にとって「藍」とは色ではなく、その原料や製品なども含め「染色」のことを意味した(少なくともそう認識されていた)のかもしれない。  もし、そうだとすると、当時の日本人にとっては、「ブルー」も「グリーン」もどちらも「藍」(アイ→アオ)だということになる。日本語の表現にあって、 たとえば「青葉」などというように、「ブルー」と「グリーン」の区別が曖昧なのは、こうしたところに原因があるのかもしれない。  もっとも、ベトナムやタイ、中国や朝鮮(韓国)などでも、この区別は曖昧だという。ヨーロッパでは厳格だそうだが。どうやら、単に色の認識範囲の問題であるらしい。「藍」や「緑」も広く含んで、日本人は「アオ」と表現していたのだろう。  ところで、「山藍」でも根を使えば、ブルーに染めることができるという。やはり、「藍」という以上は、「ブルー」だと解釈するのが妥当かもしれない。

(反歌)

○ 大橋の 頭(つめ)に家(いへ)あらば 心悲(うらがな)しく 独り行く児に 宿貸さましを 【高橋虫麻呂(万葉集9-1743)】

 (大橋のたもとに私の家があったなら、切なく愛おしく、ひとり渡って行く子に宿を貸すものを)

 

○ 白雲の 龍田の山の 滝上(たぎのへ)の 小椋(をぐら)の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎて降れれば 上枝(ほつえ)は 散り過ぎにけり 下枝(しづえ)に 残れる花は しまらくは 散りな乱りそ 草枕 旅ゆく君が 帰り来むまで 【高橋虫麻呂(万葉集9-1747)】

 (龍田山の激しい流れの上の小椋の嶺に咲き満ちている桜の花は、山が高いために風が本当にやまないので、春雨が連続して降るので、上の方の枝の花は散ってしまった。下の方の枝に残っている花は、しばらくは散り乱れないでおくれ、旅に出ている、あの方が帰って来るまで)

(反歌)

○ 我(あ)が行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし【高橋虫麻呂(万葉集9-1748)】

 (私の旅は、7日はかからないだろう。風の神である龍田彦よ、どうか、この花を風で散らさないでおくれ)

 

○ 白雲の 竜田の山を 夕暮れに うち越え行けば 滝の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり 含(ふふ)めるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見(め)さずとも かにもかくにも 君がみ行きは 今にしあるべし 【高橋虫麻呂(万葉集9-1749)】

 (竜田の山を夕暮れに越えて行くと、激流の上の方に咲いていた桜の花は、咲いていたのは散ってしまった。つぼみのものは続けて咲くだろう。あちこちにある、すべての桜を花の盛りに見られなくとも、あなたの、お越しになる時期は、まさしく今だろう)

(反歌)

○ 暇(いとま)あらば なづさひ渡り 向(むか)つ峰(を)の 桜の花も 折らましものを 【高橋虫麻呂(万葉集9-1750)】

 (時間があったら、水に阻まれながらも川を渡って、対岸の桜の花を折ろうものを)

※ 1747~1750の歌は、万葉集の説明では「春三月に、諸の卿大夫等の、難波に下る時の歌」とある。藤原宇合(うまかい)が、難波に下るときに高橋虫麻呂が詠んだと見られ、天平4年(732)のことだとされる。

 

○ 島山を い行き廻(もとほ)る 川沿ひの 岡辺の道ゆ 昨日こそ 我(あ)が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに 峯の上の 桜の花は 滝の 瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには あらしの 風な吹きそと 打ち越えて 名に負へる社に 風祭(かざまつり)せな 【高橋虫麻呂(万葉集9-1751)】

 (島山を回り込むように流れる川に沿った岡辺の道を通っ て、確かに昨日のことだった、私が越えて来たのは。一晩寝ただけなのに峯の上の桜の花は滝の瀬を散って流れている。あなたが見る、その日までは、激しい風 よ吹くなと、竜田道を越えて、風の神として知られている龍田の社で、風を鎮める祭祀をしよう)

※ 「島山」とは、現在の「芝山」のことである。

(反歌)

○ い行き逢ひの 坂の麓に 咲きををる 桜の花を 見せむ子もがも 【高橋虫麻呂(万葉集9-1752)】

 (国境(くにざかい)の坂の麓に咲き誇る桜の花を見せてやれる彼女がいたらいいのになァ)

※ 1751~1752の歌は、高橋虫麻呂が藤原宇合を見送り、難波で1泊して帰ってきたときの歌であると考えられる。

※ 隣り合った国の神が同時に出発し出会ったところを国境に決めたという「行き逢い坂」伝説を踏まえた歌。竜田越えは、河内と大和の国境である。

 

○ 雁(かり)がねの 来鳴きしなえに 韓衣(からごろも) 竜田の山は 黄始(もみちそ)めたり 【作者不明(万葉集10-2194)】

 (雁が来て鳴くと同時に、韓衣を裁つ、竜田の山は色づき始めた)

※ 万葉集のころは「もみじ(もみぢ)」といえば「黄葉」のことだったらしい。黄色や茶色に色づいた(枯れた)葉のことか。これが、古今和歌集のころになると「紅葉」となるようだ。

 

○ 明日香川 黄葉(もみぢば)流る 葛城(かづらき)の 山の木の葉は 今し散るらし 【作者不明(万葉集10-2210)】

(明日香川を色づいた葉が流れている。その上流の葛城の山の木の葉は、今まさに散っているのだろう)

※ 明日香川(飛鳥川)といえば奈良県内を流れる川が有名だが、実は大阪府内にもある。柏原市と羽曳野市の境界あたりで石川(大和川の支流)に合流して おり、河内の飛鳥川(=河内飛鳥川。これに対して奈良県内の方を大和飛鳥川とも呼ぶ)として知られている。この歌は、「葛城(の山々が上流にある)」と歌 われているところから、河内の飛鳥川を歌ったものだと判断できる。

※ 古今和歌集(5-284)と拾遺和歌集(219)に、この歌のパロディがあり、拾遺和歌集では柿本人麻呂の作とされている。

 

○ 妹(いも)が紐 解くと結びて 立田山 今こそ黄葉(もみぢ) はじめてありけり 【作者不明(万葉集10-2211)】

 (妻の紐を解いて結んで、立つ、竜田山は、今まさに色づき始めた)

※ お互いが相手の紐を結び、次に会うときまで、その紐を解かないようにしよう(浮気しないでおこう)という風習があったという。

 

○ 夕されば 雁(かり)の越えゆく 竜田山 時雨(しぐれ)に競(きほ)ひ 色づきにけり 【作者不明(万葉集10-2214)】

 (夕方、雁が越えて行く竜田山、時雨に負けないで色づいてきた)

※ 雨にあえば、紅葉は散ってしまうもの。その感覚は、今も昔もかわらない。しかし、雨にも負けない(散らない)ようすが歌に詠まれることもある。

 

○ 秋されば 雁飛び越ゆる 竜田山 立ちても居ても 君をしぞ思う 【作者不明(万葉集10-2294)】

 (秋、雁が飛び越えて行く竜田山、立っていても座っていても、始終休むことなく、あなたのことを思う)

※ 新古今和歌集(1686)に、ほとんど同じ歌がある。再録か。

 

○ 大伴の 三津の泊(と)まりに 船泊(は)てて 竜田の山を いつか越え行かむ 【作者不明(万葉集15-3722)】

 (大伴の三津(港)に早く船を泊めて、竜田の山を越えていきたいと思う、いつか越えて行けるのだろうか)

※ 天平8年(736)、新羅に派遣されたものの、両国の関係悪化から受入れを拒否された使節一行は、むなしく帰国。その途中、大使・阿部継麻呂は、対 馬で病死。その後、海路、ようやく筑紫を経て播磨まで帰ってきた一行が詠んだ歌5首のうちの1首である。 一行は、天平9年1月に大判官・壬生宇太麻呂や小判官・大蔵麻呂らが、同年3月に副使・大伴三中らが、なんとか帰京している。竜田山というのは、ここを越 えれば都だという、一つの象徴でもあったようだ(5-877も同様と思われる)。早く都へ帰りたい、でも帰れるのだろうか、という疑問推量の歌である。 三津は、「御津」(公的な要港)のことだとされる。

 

○ 君により 我が名はすでに 竜田山 絶えたる恋の 繁きころかも 【平群女郎(へぐりのいらつめ)(万葉集16-3931)】

 (あなたのことが原因で、私の名はすでに立った(絶った)、竜田山です。その絶ったはずの恋が、また盛んになっている今日このごろです)

 

○ 龍田山 見つつ越え来し 桜花 散りか過ぎなむ 我が帰るとに 【大伴家持(万葉集20-4395)】

 (龍田山を越えながら眺めてきた桜の花は、私が帰る時までに、すっかり散ってなくなってしまうのではないだろうか)

 

 

古今和歌集

○ 花の散る ことやわびしき 春霞 たつたの山の うぐひすのこえ 【藤原後蔭(みかげ)(2-108)】

 (花の散ることが辛いのだろうか。春霞が立つ、竜田の山のウグイスの声よ)

 

○ 龍田川 もみじ乱れて 流るめり わたらば錦 中やたえなむ 【読人不知(5-283)】

 (龍田川に紅葉が入り乱れて流れているようだ。川を渡ると、その錦が途中で途切れてしまうだろう)

 

○ 龍田川 もみじ葉流る 神なびの みむろの山に 時雨(しぐれ)降るらし 【読人不知(5-284)】

 (龍田川を紅葉が流れている。上流の三室山に時雨が降っているのだろう)  ※ 万葉集10-2210のパロディ。拾遺和歌集(219)にも同じ歌が収録されており、こちらでは柿本人麻呂の作とされている。   ※ この歌によって龍田川が紅葉の名所となった、とも言われている。確かに万葉集では、紅葉より桜の方が目立っている。

 

○ もみじ葉の ながれてとまる みなとには 紅深き 浪(なみ)やたつらむ 【素性(そせい)法師(5-293)】

 (紅葉が流れて来て止まる港とでもいうべき河口には、紅の鮮やかな浪が立つだろう)

 

○ ちはやぶる 神世もきかず 龍田川 から紅に 水くくるとは 【在原業平(5-294)】

 (神世の時代にも聞いたことがない。龍田川よ、濃く鮮やかな紅色に流れの水をくくり染めにするとは)

 

○ 龍田姫 たむくる神の あらばこそ 秋のこのはの ぬさとちるらむ 【兼賢王(かねみのおほきみ)(5-298)】

 (龍田姫が、その旅立ちに際して旅の安全を祈って手向ける神がいるからこそ、秋の木の葉は紅葉し、神に供える幣(ぬさ)のように散るのだろう)

※ 龍田姫は、秋の神であり、また風の神でもある。

 

○ 神なびの 山をすぎ行く 秋なれば たつたの川にぞ ぬさはたむくる 【清原深養父(ふかやぶ)(5-300)】

 (秋の神が山を通って行く秋なのだから、まさに、この龍田川に紅葉を幣として手向けているのだ)

 

○ もみじばの 流れざりせば たつた川 水の秋をば たれか知らまし 【坂上是則(さかのうへのこれのり)(5-302)】

 (紅葉が流れなければ、竜田川よ、四季の変化がない水で、その秋を誰が知るだろうか)

 

○ 年毎に もみぢ葉流す 龍田川 みなとや秋の とまりなるらむ 【紀貫之(5-311)】

(年ごとに、もみじの葉を流す龍田川よ、その河口は、もみじの葉が流れ着く秋の停泊港なのだろうか)

 

○ 龍田川 錦おりかく 神な月 しぐれの雨を たてぬきにして 【読人不知(6-314)】

 (龍田川は、紅葉を錦に織り懸けている。神無月の時雨を縦糸と横糸にして)

 

○ 風吹けば おきつ白波 竜田山 夜はにや 君が ひとりこゆらむ 【読人不知(18-994、伊勢物語)】

 (風が吹くと沖の白波が立つ、竜田山を夜半にだろうか、あなたは一人で越えるのでしょうか)

※ 万葉集1-83のパロディ。

 

○ たがみそぎ ゆうつけ鳥か 唐衣 たつたの山に をりはへて鳴く 【読人不知(18-995)】

 (いったい誰の禊(みそぎ)の木綿(ゆう)付け鳥なのだろう、唐衣を裁つ、竜田山でずっと鳴いている)  ※ 「ゆうつけ鳥」は、夕告げ鳥とも解釈できる。

※ 「ゆう」とは楮(こうぞ)からとった繊維で、榊(さかき)に付けて祭祀用具として使われたもの。木綿付け鳥とは、ニワトリであるらしい。

 

 

新古今和歌集

○ 行かん人 来ん人忍べ 春霞 立田の山の はつ櫻ばな 【中納言家持(大伴家持)(1-85)】

 (行く人も来る人も思い慕え、春霞の立つ、竜田山の初桜の花を)

 

○ 葛城や 高間の櫻 咲きにけり 立田のおくに かかる白雲 【寂連法師(1-87)】

 (葛城の高間の桜は咲いた。竜田山の奥に白雲がかかっている)

 

○ しら雲の 立田の山の 八重桜 いづれを花と わきて祈りけん 【道命法師(1-90)】

 (白い雲が立つ、竜田山の咲き誇る八重桜、どれが花だと区別して祈ることができたのだろうか)

 

○ 白雲の 春はかさねて 立田山 おぐらの嶺に 花にほうらし 【藤原定家(1-91)】

 (白雲が、春にはいくつも立つ、龍田山、その山中のおぐらの嶺に花が咲き匂っているようだ)

 

○ ちり散らず おぼつかなきは 春霞 たなびく山の 桜なりけり 【祝部(はふりべ)成中(2-115)】

 (散ったのか、散っていないのか、はっきりしないのは、春霞のたなびいている山の桜である)

 

○ 朝ぎりや 龍田の山の さとならで 秋きにけりと 誰かしらまし 【法性寺入道(4-302)】

 (朝霧の立つ、竜田の山、里ではない山の秋は早い、その早い秋が来たと知ってほしい)

 

○ 龍田山 夜半(よわ)にあらしの 松吹けば 雲にはうとき みねの月かげ 【左衛門督通光(4-412)】

 (竜田山、夜半に嵐が吹くと雲に全く妨げられない峰の月が浮かぶ)

 

○ 龍田山 梢まばらに 成るままに 深くも鹿の そよぐなるかな 【俊恵法師(5-451)】

 (竜田山の木々の葉が散って梢がまばらになったので、鹿も人目につかないように山深く隠れたようだ)

 

○ 立田山 あらしや峯に よわるらむ 渡らぬ水も 錦たえたり 【宮内卿(5-530)】

 (竜田山の峰に吹く嵐も弱まったのだろうか、水に流れる紅葉が絶えてしまった)

 

○ 龍田姫 いまはの此(ころ)の 秋風に 時雨をいそぐ 人の袖かな 【摂政太政大臣(5-544)】

 (秋の神である龍田姫が行くころ、秋も終わりのころの秋風に、時雨を待ちわび、悲しみに耐えかねる人の涙(紅涙=血涙)で濡れて、赤く染まった袖よ)

※ 雨に濡れた紅葉は、ひときわ鮮やかである。深い悲しみの涙(血涙)で濡れる袖もひときわ赤く染まるだろう。深い悲しみのあでやかさ。などといった技巧で、紅葉を詠んだ歌であろう。

 

○ から錦 秋の形美や 立田山 散りあへぬ枝に 嵐吹くなり 【宮内卿(6-566)】

 (美しい錦のような、すばらしい紅葉の秋の竜田山、散り終わらずに紅葉の残っている枝に嵐が吹く)

 

○ 立田山 秋行く人の 袖を見よ 木々のこずえは しぐれざりけり 【前大僧正慈円(10-984)】

 (竜田山を秋に越えて行く人の、悲しみの涙(紅涙)で染まった袖を見てくれ、それに比べると木々の梢の紅葉は、まだ時雨にあう前と同じで、鮮やかに染まっていない)

 

○ なき名のみ 立田の山に 立つ雲の ゆくへもしらぬ 詠(なが)めをぞする 【権中納言俊忠(12-1133)】

 (あらぬ噂ばかりが立つ、竜田の山に立つ雲はどこへ流れていくのか知らない、茫然と物思いをする)

 

○ 秋されば かり人こゆる 立田山 たちてもいても 物をしぞ思ふ 【人麿(17-1686)】

 (秋が深まると狩人が越えていく竜田山、立っていても座っていても、もの思いが絶えないことだ)

※ 万葉集(10-2294)に同じような歌がある。柿本人麻呂作と伝えられる歌が、一部変化して再録されたものか。

 

 

その他

○ 大坂に 会うや乙女を 道問えば 直(ただ)には告(の)らず 当麻路(たぎまじ)を告る 【履中天皇(古事記)】

 (大坂で出会った乙女に道を訊いたところ、この道を行かずに当麻路を行くようにと答えた)

 

○ 淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも 【古歌(続日本紀)】

 (淵も瀬も清らかな博多川、千年の後の世までも清くすんでいるだろう)

※ 博多川とは、柏原市役所付近で大和川に合流している石川のこと。この歌は、宝亀元年(770)2月、称徳天皇(孝謙天皇)が由義宮に行幸したとき、230人の男女によって催された歌垣で歌われた古歌である。

 

○ からごろも 立田の山のもみぢ葉は もの思う人の袂なりけり 【読人不知(後撰和歌集)】

 (唐衣を裁つ、龍田山の紅葉は、憂いに沈み悲しみの涙(紅涙)で染まっている人のたもとであるよ)

 

○ 龍田川 もみぢ葉ながる みよしのの 吉野の山に 桜花咲く 【花園院(風雅和歌集)】

 (龍田川には紅葉が流れる、吉野の山には桜の花が咲く)  ※ 花札遊び? 名所案内?

 

○ 満山紅葉破心機、況遇浮雲足下飛。寒樹不知何処去、雨中衣錦故郷帰。 【菅原道真】

 (満山の紅葉、心を破るの機、ここに遇う浮雲の足下を飛ぶに。寒樹、いずこへか去るを知らず、雨中の衣錦、故郷へ帰る)

※ 昌泰元年(898)10月、宇多上皇が吉野行幸の帰途、竜田越えで住吉に向かった。これに同行した道真が、亀の瀬あたりで詠んだとされる。

 

○ 亀瀬山之嵐、紅葉影脆、龍田川之浪、白花声寒。 【藤原道長】

 (亀の瀬山の嵐、紅葉の影 やわらかく、龍田川の波、白花の声 寒し。)

※ 治安3年(1023)10月、高野山参詣の帰途、法隆寺から竜田越えで河内に入り、その後、四天王寺に向かった道長が、亀の瀬で詠んだとされる。

 

○「遊普光寺 寺在河州府東山」 秋日適尋古寺登、暮林蓊索嶺泉澄。梯危路遶幽渓入、山隔雲従断峡興。如遇舊遊丹頂鶴、纔談往時白眉僧。此時促膝沈吟苦、被引風流去未能。

 【大江佐国(おおえのすけくに)(本朝無題詩9-664)】

(「普光寺に遊ぶ 寺は河州、東山にあり」 秋日 たまたま古寺を尋ねて登る、 暮林 蓊索(おうさく)として、嶺泉(りょうせん) 澄む。  梯(てい) 危うく、路(みち) めぐりて幽渓(ゆうけい)に入り、 山 隔てて、雲 断峡より興(おこ)る。  旧遊に遇(あ)うが如し 丹頂の鶴、 わずかに往時を談ず 白眉の僧。  この時 膝を促して 沈吟して苦しみ、 風 流れるに引かれ 去ること いまだ能(あた)わず。)

※ 普光寺は、いわゆる河内六寺の一つ、鳥坂寺のことだと考えられる。大江佐国がこの地を訪れたのは、11世紀後半、1070~1080ごろのことか。 鬱蒼(うっそう)と茂る木々、梯子(はしご)のように急な坂道、うねるように続く山道、切り立った崖・・・などの環境の中で、当時、寺は相当荒廃してお り、往時を語るものは、ほとんど何もなかったのかもしれない。


○ 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり 【能因法師 69番 (後拾遺集)秋・366】

 

○ 初蝉や 人松陰を したふ比(ころ)

○ 雲折りおり 適(まさ)に青葉見ゆ 玉手山 【小林一茶(西国紀行)】

※ 寛政7年(1795)4月、藤井寺と道明寺を参拝した一茶は、当時、すでに景勝地として知られていた玉手山を訪れた。

 

○ 亀の瀬川 早瀬の浪の 音添えて 岩切り通す 峰の松風 【伴林光平】

 (亀の瀬川の早い流れの浪の音とともに岩を切り裂くような峰の松風が吹く)  このほか、「河内鑑名所記(かわちかがみめいしょき)」(三田浄久、延宝3年(1679)刊)に多数の狂歌や俳句が収録されているが、ここでは省略する。

※ 亀の瀬あたりの大和川の流れを、かつては「龍田川」(「立田川」「たつた川」)と呼んでおり、万葉集や古今集などの竜田越えや竜田川を題材にした歌は、多くが亀の瀬あたりで詠まれたものだと考えらる。 

 

 

参 考

 新編日本古典文学全集第6巻「萬葉集」1(小島憲之、木下正俊、東野治之、小学館1994)、同第7巻「萬葉集」2(同、小学館 1995)、同8巻「萬葉集」3(同、小学館1995)、同第9巻「萬葉集」4(同、小学館1996)、「かしわらの史跡」(上)(重田堅一、柏原市 1992)、同(下)(同、柏原市 1993)、「柏原町史」(柏原町(現・柏原市) 1955)他

2013.7.4 注釈加筆

2013.7.9 注釈再加筆

(文責:宮本知幸)

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