天誅組・新選組と柏原

2013年7月25日 (文化財課)

 文久3年(1863)に天誅組(てんちゅうぐみ)と新選組が結成されてから今年(平成25年)で150周年を迎えます。

 天誅組は皇軍(こうぐん)御先鋒(ごせんぽう)を称して行動した反幕府勢力、新選組は徳川幕府による反幕府勢力取り締りのための武装組織とされます。

 当時、現在の柏原市域から天誅組と新選組に参加した2人の若者がいました。天誅組に参加した田中楠之助と新選組に参加した大谷良輔(良助)です。しかも、この2人は、同じ法善寺村(現在の柏原市法善寺)の出身だったのです。いったい、どのような状況だったのでしょうか。

 市内に残る史料などを通じ、これまで、あまり語られることのなかった、この2人を中心に、天誅組・新選組と当時の柏原との関わりなどについて、考えてみることにしましょう。

 

天誅組

 文久3年(1863)8月13日、孝明天皇による攘夷祈願のための大和行幸が決定されたことによって、尊王攘夷派が江戸幕府を追いつめるために大和で挙 兵した事件を天誅組の乱といいます。尊王攘夷とは、天皇の権威を絶対化し、外国を討つという思想です。8月17日に五条代官所を襲撃しましたが、8月18 日に情勢が一変し、天皇の行幸は取りやめとなりました。その後、十津川周辺で幕府軍と戦い、9月末には天誅組は壊滅しました。

 天誅組の名は、当初より自称したものではなく、代官所襲撃後に誰いうとなくつけられた名称です。「天誅」とは、天に代わって不届き者を罰することです。過激な思想集団でしたが、その思想は明治に受け継がれました。

 

新選組

 「新撰組」ともいいます。幕末期に浪士らを集めてつくられた武装組織です。文久2年(1862)に江戸で浪士組が組織され、文久3年2月8日に京都へ。 2月27日、京都守護職松平(まつだいら)容保(かたもり)の監督下に入り、尽忠(じんちゅう)報国(ほうこく)の浪士として新選組を結成しました。京都 の警護などを行い、弱体化していた幕府の権威を維持するために活躍しましたが、乱暴をはたらく者も多かったようです。

 その後、薩摩・長州などの尊王派が勢力を強め、慶応4年(1868)1月3日に鳥羽伏見の戦いで敗北、江戸周辺で最後の戦いとなりましたが、いずれも大敗しました。

 天誅組と新選組は、まったく異なる思想集団です。

 

法善寺村の二人の人物

 江戸時代の河内国大縣郡法善寺村は、現在の柏原市法善寺を中心に、山ノ井町などにも広がっていました。村は、18世紀中ごろに北法善寺村と南法善寺村に分けられ、それ以降明治まで、北の庄屋を田中家が、南の庄屋を大谷家が務めています。

 そして、田中家から田中楠之助が天誅組に参加、大谷家から大谷良輔が新選組に参加しています。庄屋を務める両家から、全く思想の異なる人物が生まれ、それぞれ幕末の動乱の中に身を置いたという事実は、非常に注目に値すると思われます。

 

田中楠之助

 天保14年(1843)9月5日、北法善寺村の庄屋・田中兵左衛門の次男として生まれています。幼いころから武芸に親しみ、向田村(現在の富田林市甲田)の水郡家の道場に通っていたようです。そこでの水郡善之祐の影響などによって、尊王攘夷派となったようです。  文久3年(1863)に天誅組に参加したときは、数え年21歳。砲一番組長として活躍し、劣勢となって以降は水郡ら河内勢と行動をともにし、9月22日に紀州藩の兵営に自首して捕えられました。10月3日には京都六角の獄に入れられ、元治元年(1864)7月19日に首を斬られました。

 その後、明治35年(1902)に従五位が贈られ、昭和3年(1928)には地元有志の手で巨大な顕彰碑が建てられました。

 

伴林光平

 文化10年(1813)、河内国志紀郡林村(現在の藤井寺市林)の浄土真宗尊光寺で生まれた伴林光平という人がいます。幕末の歌人・国学者として有名で、天誅組には、記録方兼軍議方として参加しています。幕府軍との戦乱のなかを脱出し、大和から十三峠を越えましたが、磐船山の麓の茶店で捕えられまし た。奈良奉行所から京都六角の獄へ送られ、元治元年(1864)2月16日刑死しています。

 光平は弘化2年(1845)から八尾成法寺(現在の八尾市南本町)にある教恩寺の住職を務めていました。そのころ、歌人としての光平の門人が柏原にもたくさんいました。法善寺村の田中兵左衛門(楠之助の父)、大谷十助(良輔の父)もその門人でした。

 

大谷良輔

 大谷良輔は、河内からただ一人の新選組隊士でした。本名を良助(りょうすけ)といいますが、新選組では良輔(よしすけ)と名乗っていたようです。天保7年(1836)、南法善寺村の庄屋・大谷十助の次男として生まれました。  新選組に入隊した理由や、正確な時期も明らではありませんが、入隊は元治2年(1865)の初めのころのようです※。ところが、その年の3月4日(3日とも)に死亡しています。死因は事故死とも考えられますが、切腹の可能性が高いようです。理由はわかっていません。遺体は壬生光縁寺に埋葬され、弟の郁三郎によって神宮寺墓地(八尾市神宮寺)に墓が建てられました。墓石には「大谷有知」と刻まれています。

 ※元治2年4月7日に改元して、慶応元年となりました。

 

法善寺村と大谷家

 良輔の家は、庄屋を務めていた大谷家の五代目権右ヱ門の三男・虎吉が分家して、十助を名乗ることに始まるようです。三代目十助が良輔の父にあたります。 その後、本家では九代目大谷権右ヱ門善品が嘉永5年(1852)に亡くなったあと跡継ぎがおらず、三代目十助が庄屋を継ぐことになりました。その十助が文久2年(1862)に亡くなったあと、良輔が庄屋を継いだようです。そして、庄屋を継いで間もなく、良輔は新選組へと身を投じました。良輔にいったい何が あったのでしょうか。

 その後、庄屋は弟の郁三郎が継いでおり、記録では郁三郎が四代目となっています。良輔が庄屋を務めていたことは記録から消されてしまったようです。

 良輔は、何故、庄屋を継いでいたにもかかわらず、その立場を捨てて新選組に参加したのか、何故、切腹したのか、謎はつきません。

(文責:安村俊史)

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話:072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431