宮沢賢治と柏原 賢治は、かつて柏原の地を訪れていた

2014年1月8日

 「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などの童話、「雨ニモマケズ」などの詩で知られる作家・宮沢賢治が、かつて柏原の地を訪れていた。賢治が柏原の地を訪れたのは、大正5年(1916)3月、今から100年近く前のことだ。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の修学旅行で同級生らとともに、当時柏原駅の北側にあった農商務省農事試験場畿内支場を見学している。当時の畿内支場は、稲の品種改良研究でトップレベルにあったという。さらに、その5年後、大正10年(1921)4月にも賢治は柏原の景色を目にしている。このときは、ただ列車に乗って柏原駅を通過しただけだったが、当初はここで大阪鉄道(現・近鉄)線に乗り換え、南河内郡太子町の叡福寺を目指す予定だったようだ。

 そのころの柏原は、どんなようすだったのだろう。宮沢賢治と柏原、知られざる郷土史を明らかにするため、柏原に関連する賢治の足跡などをたどってみることにしよう。

 

宮沢賢治

宮沢賢治(Wikipediaより)

 

盛岡高等農林学校の修学旅行で農事試験場畿内支場(柏原)を見学 (大正5年3月)

 明治29年(1896)8月27日、現在の岩手県花巻市(当時は、稗貫郡里川口村)で出生した宮沢賢治は、大正3年(1914)に盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)を卒業した後、入院生活などを経て、翌大正4年(1915)、盛岡高等農林学校に入学した。  大正5年(1916)3月19日(日)、農学科第2学年修学旅行に出発した、当時19歳の賢治たち一行は、東京で農商務省農事試験場の本場(北豊島郡瀧 川村西ヶ原、現・北区西ヶ原)や分場(渋谷)などを見学した後、22日(水)、京都に移動。23日(木)、京都府立農林学校などのほか、嵐山や金閣寺など を見学した。途中訪れた衣笠村(現・京都市北区)では村長から同村の農業事情を聴き、兼業農家のないことや専業で農業に励む結果、農家が豊かなことなどを 知って感心している。他方、改善指導を受けても、これまでの栽培方法を容易に改めない京都農民の頑固さを聞いて驚いている。24日(金)も京都で御所や農 事試験場などを見学した後、夕方、奈良に移動した。

 25日(土)、東大寺や春日大社など奈良の名所見物をあわただしく終えた一行は、午前10時06分奈良駅発の列車で柏原駅へと向かった。農商務省農事試験場畿内支場見学のためだ。柏原駅着は、当時の時刻表によると午前10時47分だったと思われる。  農事試験場とは、明治26年(1893)、農産物の増殖や改良試験などを行うため、農商務省により、全国に設置された施設。東京の本場のほか、大阪、宮 城、石川、広島、徳島、熊本の全国6か所に支場が設置された。明治29年(1896)には、それぞれの支場が畿内、東奥、北陸、山陽、四国、九州と改称さ れ、同時に東海、陸羽、山陰の3支場が新設されて合計9支場となった。しかし、明治36年(1903)には、すべての支場が廃止され、改めて、畿内、九 州、陸羽の3支場が設置されたという。畿内支場は、大阪府南河内郡柏原村(現・柏原市)に設置され、当時、柏原駅の北約200メートルにあったとされる が、農商務省農事試験場が明治36年2月に発行した冊子「畿内支場一覧」所載の地図を見ると駅のすぐ北側に敷地が広がっていたことがわかる。正門は、黒田 神社のすぐ南側、旧奈良街道(今町通り~古町通り)に面して設けられていたと推定される。柏原駅(西口)から正門までを道のりで見ると約200メートルに なる。正門を入ったところに二つの庁舎(事務所棟)や分析室、応接室、ガラス室(温室)などが集中している一画があり、その南側と関西本線の線路をはさん だ東側に試験用農地が広がっていた。明治36年ごろの総敷地面積は、約27500平方メートル。内、試験用農地は、畑約12000平方メートル、田約 11000平方メートル(計約23000平方メートル)だったようだ。水稲、陸稲、麦、サツマイモ、アブラナなどの品種別の収穫量比較や品種改良のための 交配研究、肥料、病虫害試験などが行われていた。特にガラス室(約92平方メートル)は東京の本場にもない施設で、これらの施設を用いての稲の品種改良研 究は当時のトップレベルにあったという。このガラス室は、大阪で全国博覧会が開催されたときに建設された2棟のガラス室のうちの1棟を移築したものだとさ れる。当時、畿内支場には、全国から約3500品種もの水稲が集められていた。

 

畿内支場の東

畿内支場の分析室(左)と庁舎(右)
(農商務省農事試験場1903より)
畿内支場の東側試験用農地 (絵葉書より)

 

 支場の敷地は、関西本線の線路で東西に二分されており、西側は線路と現在の駅前通り、旧奈良街道に囲まれた一画、北限は黒田神社のあたりで、現在、柏原駅西口自転車駐車場や市民交流ひろばなどのある一帯。東側は旧ダイエー跡の南側付近から北の方、線路と長瀬川に囲まれた大県通り商店街あたりまでの一帯だったと推定される。

 さらに明治41年(1908)ごろからは、旧奈良街道の西側にも約35000平方メートルの試験用農地を借地していた。現在の大正1丁目~2丁目付近を中心に同3丁目の一部や古町1丁目の一部を含んだ一帯だと推定される。したがって、賢治たちが訪れた大正5年ごろには、計約58000平方メートルもの試験用農地が広がっていたことになる。現在の柏原市域の当時の人口は、大正9年(1920)の第1回国勢調査の集計によると約13500人(現在は約73000人)。現在、市街地となっているあたりにも当時は広大な農地が広がっていたようだ。

 賢治たちは、ここで、各種稲の品種栽培試験の実際を見学したかったようだが、訪れたのが3月だったためか、それはかなわなかった。しかし、支場長から稲や麦の品種改良、在来種からの優良種選別などについて、くわしい話を聞くことができたという。満足した一行は、ここで昼食をすませ、支場長に見送られて、柏原駅から天王寺駅へと向かった。柏原駅午後1時28分発又は午後2時08分発、湊町(現・JR難波)行きの列車に乗ったものと思われる。天王寺駅着は、午後2時02分又は午後2時31分。天王寺駅で下車した目的は、大阪府立農学校訪問のためだったが、残念ながら、その日、同行は休校だった。土曜日の午後だったためか、それとも春休みだったためか。それでも午後5時ごろまでかけて、建物や農場など同校の施設と同校近くのナゴヤコーチン(ニワトリ)の孵卵(ふらん)所を見学している。その後、折から降り出した雨の中を桃谷駅に駆けつけ、なんとか列車に間に合って、無事、京都の旅館に入ることができたようだ。府立農学校では、ただ設備の立派さに驚き、うらやましく思っただけだったという。

 

現在の柏原駅北側

畿内支場平面図
(農商務省農事試験場1903より)
現在の柏原駅北側の様子

 

 その後、賢治たちは、滋賀県立農事試験場や京都の野菜の促成栽培などを見学するとともに京都の名所(三十三間堂、清水寺、動物園など)も見物して、 27日(月)、9日間にわたる修学旅行の日程を終えた。しかし、賢治を含む12人は、帰路に就く同窓生たちとは京都で別れ、伊勢神宮参拝などに出かけてい る。盛岡に帰ったのは、3月31日(金)のことだったという。その間、徒歩での箱根八里越えに挑戦したりもしたようだ。

 当時の修学旅行は、農事試験場など学業関連の見学先が中心となっており、まさに「修学」旅行と呼ぶにふさわしいものだったと思われる。ただ、その直後に 現在いうところの卒業旅行に移行している。それはともかく、当時柏原にあった農事試験場畿内支場の見学は、稲、麦、サツマイモの品種改良など、賢治たちに とって得るところが大きかったと想像できる。  農事試験場畿内支場では、稲の品種改良の父と呼ばれる加藤茂苞(しげもと)が、大正4年(1915)ごろまで勤務して、稲の品種改良研究などに取り組ん でいた。加藤は、明治36年(1903)から畿内支場に勤務。翌、明治37年(1904)、日本で初めて稲の人工交配(20通りの組合せ)に成功した。明 治41年(1908)には、稲の交配組合せは235通りに達したという。賢治たちも、そうした取り組みを聞いたことだろう。加藤は、大正5年(1916) から陸羽支場長となり、畿内支場での研究成果などをもとに、大正11年(1922)、冷害などに強い稲の品種「陸羽132号」を完成させている。「陸羽 132号」は、昭和14年(1939)ごろには、東北全域、計約230000ヘクタールで栽培されていたという。その栽培推奨には、賢治も積極的に関わっ たとされる。賢治たちが畿内支場を訪れた大正5年3月当時、あるいは、まだ加藤が勤務していたのかもしれない。もし、そうだったとしたら、賢治たちは加藤 から直接、稲の品種改良などの話を聞いた可能性がある。当時の柏原は、稲の品種改良研究に関して最先端の地だったのだ。

 しかし、この畿内支場は、九州支場とともに、大正13年(1924)に廃止された。柏原市大正地区(1丁目~3丁目)などは、その跡地に誕生した街だと思われる。

 

2度目の柏原訪問・父との関西旅行(大正10年4月)

 盛岡高等農林学校の修学旅行から5年後、大正10年(1921)4月、賢治に再び関西方面への旅行の機会が巡ってきた。今回は、父・政次郎との2人旅だ。父の提案による。

 大正7年(1918)3月、盛岡高等農林学校を卒業した賢治は、4月から同校の研究生となった。大正9年(1920)、同研究生を修了した賢治は、恩師 から助教授の推薦を受けるが辞退、同年10月、国柱会(法華宗系の在家仏教団体)に入会した。当時、賢治は、信仰や職業についての考え方の違いなどから父 とたびたび言い争っていたという。

 翌大正10年(1921)1月、24歳の賢治は、ついに単身上京、本郷区菊坂町(現・文京区本郷4)に下宿した。童話の原稿などを書くかたわら、国柱会 の街頭布教活動などに参加していたとされる。そんな賢治の下宿へ、同年4月、父・政次郎が訪ねてきた。政次郎は、賢治に伊勢神宮参拝、伝教大師1100年 遠忌が行われる比叡山延暦寺への参詣、聖徳太子1300年遠忌が予定されている叡福寺への参詣を勧めた。賢治もこれを承諾、かくして父と子の旅行が実現し た。

 伝教大師1100年遠忌の行事は4月4日(月)までだったことから、出発は4月2日(土)の夜だったと推定される。2日夜、東京を発った賢治たちは、3 日(日)、雨の中を伊勢神宮に参拝した。4日(月)は二見から大津に出て、比叡山延暦寺を参詣。その夜は京都で1泊した。そして、5日(火)、叡福寺に参 詣するため、まず、京都市内の新聞社に立ち寄り同寺への行き方を尋ねた。京都から叡福寺へ向かうためには、京都駅から、まず大阪駅へ向かい、大阪駅から関 西本線始発の湊町(現・JR難波)駅へ。その後、柏原駅で大阪鉄道(現・近鉄)線に乗り換え、喜志駅で下車、そこから徒歩で山越え約3.5キロ、というの が新聞社の回答だった。前日の比叡山に引き続き、徒歩で山越えすることに抵抗があったのか、たびたびの乗り換えに不安を感じたのか、結局、賢治たちは、柏原駅で乗り換えることなく、そのまま乗車を続け、法隆寺駅まで行っている。叡福寺への参詣を取りやめ、同じ聖徳太子ゆかりの寺、法隆寺に参詣先を変更した のだ。柏原駅で下車しなかったことについて、うっかり乗り過ごしたとの見方もあるが、柏原駅は、賢治にとってはほんの5年前に同級生たちと訪れた、なつか しい駅だ。うっかり乗り過ごすことなど考えられない。このときの賢治にとって叡福寺は、どうしても参詣しなければならない寺ではなかったのだろう。した がって、柏原駅もまた、どうしても下車しなければならない駅ではなかったのかもしれない。5年ぶりの柏原駅は、賢治の目にどのように映ったのだろうか。柏 原駅の北側には、農事試験場畿内支場の試験用農地が、5年前と変わらず広がっていたことだろう。湊町、天王寺方面からの列車が柏原駅に近づいたとき、賢治 もその光景を目にしたはずだ。しかし、同級生たちと訪れた5年前とは、あまりにも状況も目的も異なっていた。  政次郎は、この旅行を機会に国柱会にこだわりすぎている賢治を戒め、併せて、父子の関係を修復するとともに帰省を促そうとしたようだ。しかし、この試み は、うまくいかなかった。6日(水)の奈良見物を経て、7日(木)、東京に戻った賢治は、花巻に帰る政次郎を上野駅に見送っている。  賢治が花巻に帰省したのは、その年の8月、妹トシの発病がきっかけだった。そして、同年11月ごろ、花巻農学校(当時は稗貫農学校。現・花巻農業高等学校)の教師となっている。

 ちなみに政次郎は、賢治と別れて帰省した直後の4月27日に地元、花巻川口町(現・花巻市)の町議会議員に当選している。

 その後、賢治は、昭和8年(1933)9月21日、急性肺炎で死去した。37歳だった。

 宮沢賢治と柏原との関わりは、それほど大きなものではない。しかし、これも郷土史の中の一つのエピソードということができるだろう。向学心に燃える、賢 治を始めとした若い農学生たちが、瞳を輝かせながら、かつて柏原駅の北側にあった農事試験場の一帯を見学してまわったこと、その試験場が稲の品種改良に関 して当時最先端の研究施設であったことは、まぎれもない事実である。

(※ 正しくは「宮澤賢治」であるが、「澤」が常用漢字でないことなどから、本文中では現在一般的な表記である「宮沢」で統一した。)

 

【賢治の生まれたころ】

 賢治の生まれた明治29年8月27日は、岩手県を中心に津波で死者行方不明者計約2万2千人を出した明治三陸地震(6月15日)の約2か月後、秋田県や岩手県で2百人以上の死者を出した陸羽地震(8月31日)の直前にあたる。

 

【大正5年当時の世界情勢】

 賢治たちが修学旅行に出かけた大正5年当時は、ちょうど世界大戦(第1次世界大戦)の最中で、修学旅行期間の 3月ごろのヨーロッパでは、独仏両軍によるヴェルダンの戦いが激しさを増しつつあるころだった。ヴェルダンの戦いは、同年の2月下旬から12月中旬ごろま で戦われた。最大の激戦(消耗戦)の一つとされ、独仏両軍の死傷者は計70万人以上、一説では計約百万人にも上ったという。しかし、賢治たち盛岡高等農林 学校の記録を見る限り、日本国内では戦時下の緊張感や深刻さは感じられない。他方、いわゆる大戦景気の華やかさとも無縁のようすだ。 また、賢治たちが京都を訪れた3月22日には、中華民国臨時大総統から中華帝国皇帝の地位にあった袁世凱が帝政の取消しを声明している。この後、中国で は、いわゆる軍閥割拠の、混乱の時代に突入していくことになる。 このように大正5年という年は、世界史的に見ると激動の時期だったということができる。

 

【加藤茂苞】

 慶応4年(1868)5月27日(新暦では7月16日)~昭和24年(1949)8月17日。山形県生まれ。東京帝国大学農学部卒。農事試験場勤務を経て、九州帝国大学教授、水原高等農林学校教授、東京農業大学教授などを歴任した。農学博士。

 

【奈良県立農事試験場畿内支場?】

 賢治や同級生らによる修学旅行当時の記録(「校友会会報第31号」大正5年7月発行)などでは、農商 務省農事試験場畿内支場を「奈良県立農事試験場畿内支場」などとしているものがある。奈良県立の施設としては、明治28年(1895)に設立された奈良県 農事試験場(現・奈良県農業総合センター)がある。明治39年(1906)には、果樹試験地も設けられ、大正12年(1923)には本場と統合されて、奈 良県橿原市四条町の現在地に移転しているが、それまでは、現在の奈良市油坂町(本場)と法蓮町(果樹試験地)にあった。いずれも奈良駅のほぼ北方向で、油 坂町の本場なら、興福寺方面から駅に向かう途中、いくらでも立ち寄ることができたはず。しかし、賢治たちは、全く見向きもしていない。奈良駅から列車に乗 り柏原駅で下車していることからみて、賢治たちが訪れたのは、間違いなく農商務省農事試験場の畿内支場である。それにしても「奈良県立・・・畿内支場」と いう名称の矛盾に気づかなかったのだろうか。奈良県農事試験場が橿原に移転したのは大正12年のことなのだから、大正5年当時に「柏原(かしわら)」と 「橿原(かしはら)」を混同することもなかっただろうし。

 

【賢治と莞爾(かんじ)】

 賢治が国柱会に入会した大正9年(1920)10月の半年前、同年4月に、当時、陸軍大尉だった石原莞爾も同会 に入会している。石原は、同年5月に中国の漢口(現・武漢)に赴任しているが、翌年(大正10年)5月(賢治が父と関西に旅行した翌月)には帰国してい る。こうしたところから、賢治と何らかの交流があったことも想像されるところである。石原は、満州事変(昭和6年・1931)の首謀者とされ、世界最終戦 争論を唱えるなど軍事思想家でもあった。帝国陸軍の異端児と呼ばれ、東条英機(首相、陸軍大臣など歴任。陸軍大将)との対立により、昭和16年 (1941)3月、予備役編入となった。明治22年(1889)1月18日~昭和24年(1949)8月15日。山形県生まれ。陸軍中将。

 

【参 考】

「【新】校本 宮沢賢治全集 第14集 雑纂 校異篇」1997 筑摩書房 「宮澤賢治年譜」1991 筑摩書房 「公認 汽車汽船 旅行案内 大正4年3月 第246号」1915 旅行案内社 「農商務省 農事試験場 畿内支場一覧」1903 農商務省農事試験場 「荘内日報社 ホームページ 郷土の先人 先覚51 我が国品種改良の父 加藤茂苞」 「柏原市史」第3巻 1972 柏原市     他

(文責:宮本知幸)

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