橋三題 幻の河内大橋・なぜ「国豊橋」なのか・リサイクル橋「新大和橋」

2014年6月27日 (文化財課)

1 幻の河内大橋

 河内大橋は、宝永元年(1704)に付け替えられる以前の旧大和川に、奈良時代(8世紀)ごろ架かっていたと考えられる橋。万葉集の高橋虫麻呂の歌に詠まれていることで知られる。架かっていたのは、柏原市安堂町、現在の同市役所付近だと推定されるが、史料も少なく遺構なども発見されていないため、架けられた時期や場所、規模、構造など、くわしいことは何も分かっていない、まさに幻の大橋である。

 安堂町周辺には、安堂遺跡や太平寺遺跡、船橋遺跡などの集落遺跡がある。柏原市域には、龍田道や渋川道などの当時の街道に沿って、竹原井頓宮(たけはらいのとんぐう)跡や智識寺南行宮(ちしきじみなみあんぐう)跡、津積駅家(つづみのうまや)跡などが残されている。当時、河内の国府(こくふ)があった藤井寺市国府(こう)にも近い。頓宮や行宮は、当時、天皇の行幸(ぎょうこう)に際して使用された宿泊所。駅家は、役人の通行のため、馬などを配置していた施設。こうしたところから、河内大橋は行幸路としても位置付けられるという。

 河内大橋は、果たして、どんな橋だったのか、どこに架かっていたのか、河内大橋が架かっていたころの大和川は、どんな風景だったのか・・・、興味は尽きない。

 

河内大橋を詠んだ歌

○ 級照(しなて)る 片足羽川(かたしわがわ)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれない)の 赤裳裾(あかもすそ)引き 山藍(やまあい)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て

  ただ独りい渡らす児(こ)は 若草の夫(つま)かあるらむ 橿の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく (万葉集9-1742) 

反歌

○ 大橋の頭(つめ)に家あらば 心悲(うらがな)しく 独り行く児(こ)に 宿貸さましを (万葉集9-1743)

 

【片足羽川】

 現在の柏原市役所付近の大和川の流れのことだと考えられている。

【高橋虫麻呂】

 奈良時代の歌人。生没年不詳。万葉集に河内大橋を詠んだ歌など約30首が収録されている。

 

 

 

2 国豊橋考

 なぜ「国豊橋」なのか? 柏原市のほぼ中央を大和川が東西に流れている。その大和川を国道25号(奈良街道)が渡る地点に架けられているのが「国豊橋」である。

 江戸時代まで渡し船に頼っていたこの場所に初めて、まともな橋が架けられたのは、明治3年(1870)10月のことだ。それ以前には、一時期、幅1尺余(約30センチ)長さ約3町(約300メートル)の橋が架かっていたことがあるだけだという。交通の要衝ということで、嘉永3年(1850)には幕府から架橋許可が出ていたが、諸物価高騰下、予算の関係もあり実際の架橋には至らなかった。安政5年(1858)7月には、渡し船が難破し乗客17人と積荷が流される、などという事故も起こっている。

 明治3年に架けられた橋は、長さ98間(けん)(約176メートル)、幅約1間(約1.8メートル)の板橋で、「国豊橋」と名付けられた。手すりは片側にしかなかった。架橋にあたっては、河内だけでなく大和も含めた、計70か村以上の人々が、すべての費用を出し合ったという。その費用は、計787両38文1歩にも上った。県(当時は堺県)による道路や橋梁の整備が始まる前に行われた架橋工事であることから、特筆に値するとも言えるだろう。

 ところで、柏原市内には、「国豊」という地名は、どこにもない。

 それでは、どうして、「国豊橋」などという名が付けられたのだろうか。

 国豊橋は、柏原市の国分地区、当時の中心集落のすぐ北側に架けられている。それで、当初は「国分橋」という名が予定されたらしい。しかし、対岸の地名が「高井田」であるところから、国分と高井田の間に架かる橋ということで、「くにたか橋」とされたようだ。そして、このとき、「国豊(くにゆたか)」の文字が当てられたのだ。「国豊」と書いて、「くにたか」と読むのである。

 しかし、「国豊」は、一般的には「くにとよ」と読むのが普通だろう。このため、いつしか「くにとよ」橋と呼びならわされるようになっていったらしい。

 「国豊橋」という表記は、架橋当時の史料に、すでに登場している。最初に誰が、どういう意図で「国高」ではなく、「国豊」の文字を当てたのか、今となっては謎である。

 かつての板橋は、昭和7年(1932)に幅約7メートルのコンクリート製の橋となり、さらに平成11年(1999)には下流側の歩道部分を除いて現在の橋が開通した。その後、下流側の歩道も完成、現在では、長さ178メートル、幅18.3メートル(内、車道部分の幅10.5メートル)の橋となっている。そして、はっきり、平仮名で「くにとよ」橋と表示されている。3代目にして、明確に「くにとよ」橋となったわけだ。

 ところで、この橋では、架橋費用の借入金返済などのため、明治5年(1872)4月から明治9年(1876)7月まで、一人につき3文の橋銭(通行料)が徴収されていた。日本最初の有料橋の誕生だとされる。

 

【貨幣単位】

 明治4年(1871)5月の新貨条例発布で「円」「銭」「厘」に呼称変更されるまで、従来どおり「両」や「文」などの貨幣単位が使われていた。1両=1円。

 

 

 

3 明治のリサイクル橋「新大和橋」

 明治7年(1874)2月、柏原村(現・柏原市)と船橋村(現・藤井寺市)を結んで、東高野街道が大和川を渡る地点に「新大和橋」という橋が架けられた。河内の村々の人々が、国豊橋と同じように、費用を出し合ったのだ。

 そして、少しでも費用を安くあげるため、大和川の下流、堺の北あたりに架かっていた「大和橋」を架け替えるときに仮設橋として使われていた橋を、架け替え完成後に買い受け、その材木をリサイクル(再利用)して架けたのである。こうしたことから「新大和橋」と名付けられたようだ。 買い受け代金は、170円50銭。それを含めた架橋の総費用は822円94銭1厘だったとか。架橋当時の橋は、長さ108間(約194メートル)、幅1間半(約2.7メートル)で、両側に手すりがあった。これは、現在の橋と、そう変わらない規模だ。つまり、当初の国豊橋より大きかったことになる。リサイクルの甲斐あってか、国豊橋より規模が大きいのに費用は、あまり変わらない。

 しかし、リサイクルが原因か、架橋直後から、早くも老朽化が目立ったとされる。加えて、大水のため上流から流されてきた渡し船がぶつかって橋脚が壊れ約11メートルにわたって橋が流されたり、橋板の破れ目から通行中の馬が川に転落し約50メートルにわたって橋板が破損したりするなどといった事故もあったという。維持管理にかかる多額の費用が、村々にのしかかることとなった。

 こうしたところから、この橋でも明治10年(1877)6月10日から通行人を対象に補助金(通行料)の徴収が始められた。しかし、収入が少なすぎたため、わずか5日間で中止になったという。

 その後も橋の維持管理には多額の費用がかかり、村の手に負えなくなったことから、架橋費用の借金完済後、県(当時は堺県)に管理が移されたということである。

 新大和橋も現在に至るまで、何度か架け替えられたが、規模は架橋当初とあまり変わっていない。今では国豊橋の方が、はるかに規模が大きい。現在、大和川を南北に渡る橋としては、他に河内橋(旧国道170号)や新大井橋(国道170号・大阪外環状線)などがある。これらが、現在の主要交通ルートだ。かつての主要交通ルート、新大和橋は、今では自転車歩行者専用橋となっている。

(文責:宮本知幸)

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