真実の 大和川の付替え 大和川は、住民運動の結果、付け替えられたのか?

2014年6月30日 (文化財課)

 宝永元年(1704)、続発する洪水被害をなくすため、それまで河内に入った後、北に向かって流れ淀川に合流していた大和川を、現在の柏原市役所付近から西に向かわせ、直接、堺の海に流れ込むよう流路を変更する大治水工事、大和川の付替え(川違え)が行われた。 一般に大和川の付替えは、今米村(現・東大阪市)の庄屋、中甚兵衛らを中心とした河内の村々の農民らが幕府への嘆願を続けていたことから、こうした嘆願運動が高まりを見せた結果、幕府を動かし施工された、というイメージがある。

 確かに万治2年(1659)ごろから始まったとされる付替え嘆願運動は、貞享4年(1687)までには河内や摂津の村々、約270か村(約15万石)にまで広がりを見せていた。

 しかし、その後、規模は縮小し、元禄16年(1703)には計42か村(約2万石)にまで減少していた。しかも付替え嘆願ではなく、治水嘆願に内容が変化していた。

 幕府がそれまでの方針を変更して付替えを決定したのは、まさにこの年、元禄16年のことだ。幕府による大和川下流の改修工事が完了した、元禄12年(1699)以後も洪水は毎年起こっていた。洪水による被害のため、元禄14年(1701)には、今米村の年貢はゼロだったという。こうした状況の下、幕府は、元禄16年に方針を変更、現地調査(検分)の後、付替え工事の施工を正式に決定した。

 付替え決定の理由は、付替えが幕府に利益をもたらすと判断されたため、だと考えられるのである。

 (文責:宮本知幸)

 

大和川嘆願書

 

中家文書-付け替え嘆願書
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