多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)―その数奇な運命―

2014年7月10日

 かつて、柏原市内で出土した文化財の中に多鈕細文鏡という鏡がある。弥生時代の青銅鏡で、直径は21.7センチある。背面、中心線から少し上に二つの鈕(ちゅう=つまみ)が左右に並んでおり、背面の全体が鋸歯文(きょしもん)と呼ばれる、のこぎりの歯のような形の細線文様で覆われている。 この鏡は、大正14年(1925)4月のある日、大阪府中河内郡堅下村大県(現・柏原市大県)の高尾山山頂近くの松林の土中から、開墾作業中のA青年によって発見された。最終的には、博物館に収められることになるのだが、それまでに多数の人の手を渡り、各地を転々として、その度に価格が高くなるなど、数奇な運命をたどったのである。

 発見者のA青年は、この鏡を無価値のものだと思い、しばらく自宅に保管していたのだが、その後、同じ村のBさんに無償で譲り渡した。これが、数奇な運命の始まりだった。

 まもなく、どこから聞き込んだのか、Bさんのところへ奈良県の古物商Cさんが訪ねてきて、この鏡を譲ってくれるよう頼んだ。そこで、Bさんは、Cさんに1円で鏡を売り渡した。その後、鏡は、CさんからDさんに3円50銭で売却された。 そして、Dさんの手元に鏡があった昭和2年(1927)4月、新聞に鏡の発見が報道され(4月28日付け、大阪朝日新聞)、この鏡のことが広く世間に知られるようになった。同時に考古学者のM氏の鑑定により、非常に貴重なものだということが分かったのだ。しかし、鏡は、このころ、Dさんから、Dさんの父Eさんに300円で売却された。 考古学者のM氏は、この貴重な鏡を何とか保存しようと、考古学に関心のある実業家のHさんを説得し、Eさんから買い取ってもらうことにした。ところが、このころ鏡は、すでにEさんから当時の朝鮮の大邱に住むFさんに350円で売却され、さらにFさんから同じ朝鮮の平壌に住むGさんの手に渡っていたのだ。しかも、Gさんの所在は、全く不明だった。

 そこで、実業家のHさんは、当時の朝鮮や満州(中国東北部)で営業活動していた古物商のIさんに依頼して、鏡を探してもらった。苦労のすえ、Iさんは鏡を発見、Hさんの元に持ち込んだ。Hさんは、鏡の価値を500円くらいだと判断したが、探し出してくれたIさんの苦労に報いるため、800円で買い取ったという。

 ところで、もともとHさんは、勤皇諸家の書を収集するのが趣味だった。こうしたところから、骨董商のJさんが持ち込んだ西郷隆盛の書(1000円)を手に入れるため、書の代金として、現金200円と、この鏡とをJさんに渡してしまったのである。

 このころ、鏡の捜索は、すでに警察の関与するところとなっており、関係者に対して刑事責任追及の様相さえ出始めていた。宮内省から大阪府警察部に対し、鏡を東京帝室博物館に提出するよう命じてきていたという。 警察の追及に耐えかねたDさんは、鏡を取り戻すべく、Hさんに会いに行ったが、鏡はすでにJさんに渡ったあとだった。

 それを知った東京帝室博物館は、Hさんを通じて、Jさんを説得。Jさんから鏡を提供してもらい、考古学の研究資料として買い入れることを決定した。かくして、鏡は、ようやく博物館の収蔵品として保存されることになったのである。 しかし、これで一件落着と思ったのもつかのま、博物館に鏡が到着した時点で、破片の一部が欠けていることが判明した。先に新聞に掲載された写真や考古学者のM氏の論文とともに考古学雑誌に掲載された写真と、博物館に到着した実物を比較したところ、実物の方の破損部分が、はるかに大きかったのだ。

 その後、再びHさんの努力もあって、欠けていた破片は発見されたが、その発見された場所は、なんと満州のハルビンだったということである。

 破片が博物館に到着したのは、昭和3年(1928)1月6日のことだった。破片を持っていたのは、平壌のGさんとよく似た名前の人物だったという。あるいは、Gさん本人だったのかもしれない。

 現在、この鏡は、東京帝室博物館の後身、東京国立博物館に収蔵されている。また、大阪府立弥生文化博物館にレプリカ(複製品)が展示されている。同種の鏡は、破片だけのものを含めても国内では現在までに10面ほどしか出土しておらず、大変貴重なものである。

 

多鈕細文鏡1

多鈕細文鏡2

多鈕細文鏡(「考古学雑誌」より) 多鈕細文鏡(「柏原市史」より)

 

【大正14年~昭和3年ごろの金銭価値】

 大正15年(1926)に政府が初めて実施した全国「家計調査」によると、当時の1か月あたりの平均世帯収入は、労働者世帯(世帯人員4.21人)で102円97銭、給与生活者世帯(同4.17人)で137円17銭だったという。労働者世帯というのは、当時一般的だった日給を得て生活している勤労者世帯のこと、給与生活者世帯というのは、世帯主が、いわゆる「月給取り(サラリーマン)」の世帯のことである。どちらも都市生活者で、農村の世帯は調査対象となっていなかったようだ。東京、横浜、大阪、京都、神戸、名古屋など全国10都市余りの世帯(労働者世帯計約3,200世帯、給与生活者世帯計約1,560世帯)が調査対象となった。

 日給が一般的だった当時にあって、月の給与(収入)が保障されている月給取りはエリートと見なされていたようだ。このため、分けて集計されている。ちなみに、大半が世帯主1人の収入である。世帯主の平均年齢は、41.3歳。当時は、平均寿命が40~50歳だったとされる時代。平均寿命は、乳幼児の死亡率が今より高かったため低く算出されているが、それでも多くの人は60歳代で亡くなっていたと思われる。なので、世帯主がそれなりの立場の世帯の平均であるようだ。

 職工の平均日給は、職種によって異なるが、だいたい2円から4円の間だったようだ。ただし、製糸工場の女工(女性労働者)は、平均98銭程度だったという。

 他方、かつ丼や親子丼は1杯20~30銭、コーヒーは10銭、映画代は1人50銭程度だったらしい。つまり、1円あれば、映画を見て昼食をとってコーヒーを飲んでもお釣りがきたというわけだ。とはいえ、うどんも1杯10銭ほどだったから、コーヒーは少々高い。高いといえば、東京新宿の有名洋食店のカレー(カリー)は、1杯80銭もしたらしい。 ところで、精米1石(約140キロ)あたりの価格は、40円余りだった。

 

参考文献

「考古学雑誌」第18巻第12号 1928.12.5
「大阪毎日新聞」1927.9.21
「物価の文化史事典」2008.7.28 展望社「柏原市史」第1巻 1969.9.1 柏原市「柏原市史」第2巻 1973.3.31 柏原市

(文責:宮本知幸)

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