青谷遺跡は、何の跡?寺跡か宮殿跡か?

2014年8月9日 (文化財課)

 柏原市青谷青少年運動広場のすぐ近くに巨大な建物跡が残されている一画がある。青谷遺跡である。奈良県から大阪府に流れ込んだ大和川が、芝山の山塊にぶつかって北に鋭く湾曲しているあたりだ。このあたりは、河内国大県郡鳥取郷に属し、かつて「鳥取千軒」と呼ばれていたという。

 この一画からは、平城京跡出土の軒丸瓦と同笵(どうはん)の瓦(同じ型から作られた瓦)や、せん(=レンガ)などが出土しており、大和川の対岸(南岸)には河内国分寺跡がある。こうしたところから、かつては、河内国の国分尼寺跡ではないかと考えられたこともあった(「柏原市史」第1巻 1969.9、P158-P159)。 しかし、国分尼寺は国分寺跡のある東条(ひがんじょう)地区にあった可能性の方が高い。というわけで、ほどなく国分尼寺跡説は否定され、とりあえず、「鳥取廃寺」と呼ばれることになった(「柏原市史」第2巻 1973.3、P211)。いずれにせよ、かつて、ここにあったのは寺院だと考えられていたわけだ。ただし、ここは離宮の跡ではないかという説も昭和57年(1982)ごろからあった。※

 その後、昭和59年(1984)の柏原市教育委員会の調査で、東西約21メートル、南北約13メートルもの巨大な建物の基壇跡や回廊跡、築地塀(ついじべい)跡などが確認された。寺院ではなく、立派な官衙(かんが=役所、官庁など)と考えられる構造だ。

 そういうわけで、青谷遺跡は、現在では竹原井頓宮(たけはらいのとんぐう)跡だと考えられている。竹原井頓宮は、奈良時代ごろの歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記載のある天皇の離宮だ。平城京から難波宮への天皇の行幸などに利用されていた。

 現在、「青谷遺跡(竹原井頓宮跡)」の説明板が、青谷青少年運動広場の入口付近に建てられている(平成22年8月、市教委文化財課設置)。

 しかし、青谷遺跡が、本当に離宮跡でいいのか。疑ってみるのも古代史研究の楽しみの一つかもしれない。

 

※ 「竹原井頓宮と智識寺南行宮に関する二、三の考察」塚口義信、「古代史の研究」第4号(関西大学古代史研究会 1982.11)所載

(文責:宮本知幸)

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