大和川物語

2014年9月8日 (まちの魅力づくり課)

大和川と柏原市

何故また、大和川と柏原市なのか。
あなたは、中甚兵衛と言う名前を聞いたことがあるでしょう。そうその昔、江戸時代元禄17年1704年大和川の付替えが完成したが、これに尽力した人物です。
大和川は、奈良県の都祁高原に源を発し奈良盆地の諸流を集め、生駒山脈と金剛山脈の切れ目である柏原市亀の瀬を経て大阪平野へと流れ出る。
太古の昔は、大阪平野は陸ではなかったのである。そこへ大和川が土砂を運びだんだんと平野を形作っていったのである。そのため幾度も氾濫を繰り返してきた。
そして、先ほどの工事が行われたその起点となったのが、柏原市であったのです。

昔の大和川は亀の瀬の下流辺りから北へ流れて天満川、淀川に合流していたのを、幕府の命で新しく川を掘り、西へまっすぐ流れを変えたというのです。
あの大河川・大和川の流れを付替えるという大改修工事が、江戸時代に行われていた―――
そして8ヶ月ほどのスピード工事であった。この事実を知るとき、わたしたちは、素直に驚かずにはいられません。

大和川付替えと「中 甚兵衛」

河内平野を幾筋もにわかれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付替えられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付替えの実現までには、50年近くの月日を要しました。
その間にも幕府は何度か付替えの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止。しかし、3年連続して河内平野がすべて泥海と化すような洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣工事を行います。
この工事で淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋はいっこうに改善されず、河床には土砂が堆積して田畑より3mも高い天井川になってしまいました。
しかも、幕府は付替え不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、 付け替えの要望ができなくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。 しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。この付替え促進派で終始運動の中心にあったのが代々の今米村(現在の東大阪市今米)の 庄屋に生まれた中甚兵衛で、同士の芝村・曽根三朗右衛門や吉田村の山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、 最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。
中 甚兵衛、付替え時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして永遠の眠りにつきました。

   

 大和川(中央)と石川(左)の合流点と歴史資料館での展示

   
        大和川・石川の合流点                    大和川付替えの図                 甚兵衛が着た陣羽織

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