柏原史跡と名所紹介

2016年3月11日 (まちの魅力づくり課)

三田家住宅

今町1丁目にあり、江戸時代に栄えた商家の姿を今に伝えています。1766年に大改修されているのみで、江戸時代の生活様式、建築様式を知るうえで貴重な資料となっています。

瑠璃光寺

行基が開いたと寺伝にあります。現在は曹洞宗。門前の小堂に阿弥陀如来像・菩薩形立像を安置し、また四天王像(4体とも木造)も寺内に保管されています。

生安寺

生安寺(しょうあんじ)は、本堂にあります。生安寺の薬師如来像は、鎌倉時代につくられたものです。
生安寺の堂前の軒下に直径30センチぐらいの鰐口がかかっています。その鰐口の銘帯に「生安寺」と書いてなくて「河内国道明寺長福寺」と書いてあります。長福寺というのは昔、藤井寺市の「道明寺」の境内にあった寺です。この鰐口は1371年の鋳造です。
元亀3年(1572年)に織田信長が古市の高原城を攻めた際、戦火でを避けるため移されそのままになったといわれています。

光徳寺

奈良時代から雁多尾畑村は、龍田越えの霊地でありました。
永延2年(988年)、延暦寺の僧法円法師が来訪、円融法皇の勅願によって一宇を建立し、東広山照曜峰寺と称しました。
しかし、その後、1113年、南都の僧兵によって焼きはらわれました。
安貞2年(1228年)近江の園城寺(三井寺)の僧俊円が雁多尾畑に来り照曜峰寺を再興しました。この年、天皇の宣旨を以て、大県郡の山中において300町歩の地を寄付され東広山照曜峰寺を改めて照曜山光徳寺の勅号を賜り、堂を雁林堂といいました。
俊円はさらに親鸞の念仏門に入り松谷仏念房信乗と称しました。これ以後当寺は真宗の道場ととなりました。
現在の本堂は、明和8年(1771年)の建立で山門は宝暦年間(1750年)ごろのものです。

石神社と知識寺

石神社(いわじんじゃ)は、太平寺の小高い丘陵の山腹にあり、高い石段を登った静かなところに社殿があります。
祭神は欽明天皇の皇后、石姫皇后(いわのひめのこうごう)で式内社です。
神社の鳥居前の樟(くすのき)は、周囲約6メートル、高さ約16メートル以上もある大樹で、樹齢700~800年と推定され、枝葉は天を覆っています。
境内には、奈良時代の名刹であった智識寺の東塔の礎石があり、これは府の文化財に指定されています。
礎石の柱穴の直径が122センチもあり、現在は神社の手洗い石として使用されています。
この智識寺には、その昔、天平12年聖武天皇が智識寺の廬舎那仏を参拝され、これが機縁となって東大寺の大仏建立を発願されたという話は有名です。

観音寺

河内の名刹であった智識寺の流れをくみ、「拾筒之内智識寺什物」と書かれた経机が所蔵されています。

天湯川田神社

30歳になって初めてことばを発した誉津別命(ほむつわけのみこと)(垂仁天皇の皇子)のために、飛び去った鳥を出雲まで追いかけて捕らえたことにより「鳥取造(ととりのみやつこ)」の姓(かばね)を与えられたという、天湯川田桁命(あまゆかわたけのみこと)らをまつっています。
神社のある高井田を中心とした地域は、かつて鳥取郷と呼ばれ、ここを治めていたのが鳥取氏でした。また、同神社は、河内六大寺の一つ、鳥坂寺(とさかでら)の跡でもあります。

大坂夏の陣古戦場跡

玉手山丘陵から大和川にかけての一帯は、大坂夏の陣で徳川方・豊臣方が激突した古戦場です。
この戦いで豊臣方を率いていた後藤又兵衛基次は傷を受けて戦闘の指揮がとれなくなり、切腹したと伝えられています。
後藤又兵衛の碑は市立玉手山公園の中にあります。
また、徳川方で討ち死にした奥田三郎右衛門、山田十郎兵衛の碑も建てられています。

安福寺と玉手山古墳群

石川と大和川の合流点を眼下に望む玉手山丘陵には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳からなる前期の古墳群が形成されています。
これらの前方後円墳には、築造時期が五期以降(五期から八期までは中期古墳、九期から十一期までは後期古墳)に下降するものは知られていません。
玉手山古墳群は、前期古墳の二期から四期という短期間に複数の地域首長が、玉手山丘陵を共同の墓域に、造墓活動を繰り返した結果、形成されたものと考えられています。
玉手山の北西に位置するところにある安福寺横穴群があります。大阪府文化財の指定を受けています。
この横穴は、高井田の横穴と同じで、凝灰岩が露呈しているところに掘られてあり、短い羨道部と玄室とからなり、天井はゆるい弓形となっており、南側、北側ともに16基、計32基が見られます。
これらの横穴には、造りつけの石棺のあるもの、陶質棺が納められているもの、有名な騎馬人の壁画が彫刻されたものがあり、全国的に数少ない横穴遺跡として注目されています。
安福寺は奈良時代の僧行基の創立でありますが、中世荒れはててただ一棟の小堂あるにすぎませんでした。
寛文年間(1661年から1673年)に浄土宗の珂億上人がこの地に来て人を導き安福寺の名を四方にあらわしましたが、上人の名を一層高めたのは徳川御三家の一、尾張大納言光友(徳川家康の孫)でありました。光友は深くその学徳に帰依しました。
そして、安福寺に寺田20ヘクタールを寄付しました。次の代からは毎年40金を贈り、これが明治維新まで続いていました。
安福寺には、左側に広大な庫裡とこれに南隣して本堂が建っています。本堂は4間四面の建物で、寛文年間の造営で屋根は低く柱は太く大風や地震に耐える万世不易を期したもので建築史上珂億建てと呼ばれるものです。

玉手橋

玉手橋は柏原市の所有となっており昭和3年、当時西日本では最古の玉手山遊園地(現在は市立玉手山公園)に通じる橋として近鉄の前進であった大鉄が石川に架けた長さ151メートルの鉄製五径間吊り橋です。主塔の間を開腹アーチで結んでいます。平成13年、国の文化財に登録されました。

河内国分寺跡

1200年前の奈良時代、聖武天皇の詔勅により全国に国分寺が造営されました。河内国分寺も、現在の国道25号線の南、国分東条町の丘陵台地に建造されました。北方眼下に大和川の清流があり、南には丘陵の樹木が多く、たいへん景色のよいところだったようです。河内国分寺には、七重塔が造立されていました。現在、堂寺跡には6個の礎石が残っています。

松岳山古墳

松岳山古墳(まつおかやまこふん)は、前方後円墳で4世紀後半のものと推定されています。大和川を左岸から眼下にする丘陵地に築かれた120メートルを測る前期の前方後円墳であります。周辺には、ほぼ同時期の築造とされる径30メートルの円墳、東大塚古墳を筆頭とした7基の円墳と1基の方墳が随伴しました。しかし、現存するのは、松岳山古墳の1基だけです。

大和川付け替え記念碑

大和川は、もとは本市通称「築留(つきどめ)」から北上して淀川へとそそいでいました。ところが、河内平野は低湿地であるため、たびたび洪水を起こしていました。そこで、宝永元年(1704)に付替え工事が行われ、本市から西、堺の方へ流れる新大和川(現在の流路)が開通しました。現在、築留には、この付替えの功労者・中甚兵衛(なかじんべえ)の銅像や付替え関係の碑などが建ち、公園として整備されています。

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