河内音頭の誕生

2013年12月2日 (地域連携支援課)

河内音頭はどのようにして出来てきたのか?

はじめに

"エーエンさぁあては〜あぁ〜、一ぃ座ぁあの皆さまぁへ〜。"
河内音頭といえば誰もが思い浮かべる、このフレーズ。ところが、今のような河内音頭は、 いわゆる終戦直後、50年ほど前に始まった。
かつて「河内音頭」と呼ばれていたのは、違う形の音頭だった。 では、河内音頭のルーツはどこにあるのかというと、はっきりとはわかっていない。
もともと河内では、古くからさまざまな音頭が盆踊りの歌として伝えられてきた。 その中には、やんれ節や江州音頭などもあり、 「河内の盆踊り音頭」イコール「河内音頭」ではないことから混乱が生じたのだ。

原型は交野節

最近の研究で、「河内音頭の原型」と言われているのは、江戸時代中頃に河内国交野群で起こったと考えられる。
「交野節」上の句が7・7、下の句が7・5・7・5の定型詩を唄う音頭で、 「アーヤレコラセェドッコイセ」や「ソラヨイトコサッサノヨイヤサッサ」などと囃しが入る。
明治時代の初期に、詞の定型にこだわらず自由に、節付けも自由に変化させて歌える音頭が生み出された。 これが、音頭取りの名前から歌亀節などとも呼ばれ、明治中期にかけて演芸場でも人気を博したという。
当時は滋賀県からも「8日市祭文音頭」が入ってきていたので、こちらを「江州音頭」と呼び、 歌亀の音頭を「河内音頭」と呼んで区別した。これが本来の河内音頭である。

平野節を経て浪曲音頭へ

大正3年、上六-奈良間に鉄道が開通。 その祝いと生駒トンネル工事の犠牲者供養を兼ねた盆踊り大会が開催された。 この時、大阪の平野から来ていた音頭取りたちが、二代目歌亀の河内音頭に感激し、 それを稽古するうちに独自の工夫を加えた「平野節」を生み出すこととなった。
そして、初音家を名乗って活躍しだしたのである。この「平野節」は、 返し節を使うことによって一節の長さを自由に変え、現代の河内音頭にも通ずるものがある。
現代の河内音頭は、平野節を基に、浪曲の地節のリズムを利用した浪曲音頭として案出された。 戦後すぐに初音会に加わった初音家源氏丸が始めたもので、たちまち評判になった。

「河内音頭」大ヒット

昭和35年から、鉄砲光三郎(柏原市の河洲光丸の師匠)が 「民謡鉄砲節 河内音頭」と銘打ったレコードを発売して第9集まで続くヒットとなり、 それまでの「浪曲音頭」は、このヒットとともに「河内音頭」の名に変わって広まった。
その後、続々と河内音頭のスターが登場し、現在までブームが続いている。(文中敬称略)

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